未来の日本史博士の時典

大メンテナンス中です。また、現在、新たなブログの改良を始めております。

MENU

後白河院政下の安徳・後鳥羽施政

どうも未来の日本史博士です。

以前から続く後白河による院政下での安徳天皇後鳥羽天皇の二帝並立について、そして平家の滅亡まで流れについてです。

それでは、どうぞ~

木曽義仲の興亡


f:id:gonikyuroku:20191015193053j:image

木曽義仲は始め京都に入って平家を京都から追い出すことに成功したので、征東大将軍に任命されました。が、しかし、ここで問題が起こるのです。もともと木曽というだけあって京都に比べると田舎だったわけです。なので作法がなってなかったわけです。しかも前回の記事で解説した通り、京都では食糧不足に陥っていて、義仲軍の兵士は食べ物を欲していました。そしてついに、我慢にも限界がきて乱暴や狼藉を都の一般人に行ってしまいます。入洛直後は不良同然だった平家の武士を追い出した功績から賞賛され、大目に見てもらっていました。でもだんだん都の人々の空気が変わり、後白河の義仲への信頼は失墜します。そして後白河は源頼朝に密かに義仲追討の院宣が下されます。これに怒った義仲は後白河の住む法住寺殿を襲い、公家を多く殺害してしまいます。この時に関白・近衛基通を罷免し、松殿師家を代わりに任命します。

その後義仲は源義経と瀬田唐橋にて争い、敗北。滋賀の粟津で敗死します。


f:id:gonikyuroku:20191015193218j:image

この時、松殿師家は失脚、以降松殿家は政治の表舞台から去ります。

平家滅亡

一時、源氏の中で内紛が起きたことにより、西国から福原に戻っていましたが、かの有名な義経の平家追討が始まります。まずは一の谷。鵯越の逆落としで有名ですね。f:id:gonikyuroku:20191016181132j:image
そのまま安徳を連れて屋島に逃げ込んだ平家一門でしたが、義経の策略に為す術もなく敗北。

f:id:gonikyuroku:20191016181149j:image

(このシーンは有名な那須与一が扇を撃ち落とすところです)
壇ノ浦に敗走します。まああとは分かりますよね。壇ノ浦の戦いで頭領・平宗盛以下平家一門は入水。安徳も清盛の妻・時子(二位尼)に抱かれて海の底に消えました。たった8歳で崩御するという今なお破られていない天皇の短命記録です。


f:id:gonikyuroku:20191016181249j:image

しかもこの時に三種の神器の一つである草薙剣が海の底に沈んでしまったのです。(実際のところ実物は熱田神宮に祀られているようなんです。御霊遷しという段階を踏んでいた複数のレプリカが存在していて、そのうちの一つを平家が持っていたとか)

同時に八尺瓊勾玉二位尼が帯同して海に沈んだものの、勾玉が入っていた箱ごと浮いてきたためそのまま回収できたとか。

この頃後鳥羽は後白河の院政下だったため、そして若年だったため、どうすることもできずにただひたすら従っているだけでした。

さて、ついに平家滅亡まで解説しましたが、次回は後白河最終章、源頼朝との確執~崩御について解説していきます。次回以降も乞うご期待!!

後白河の院政と二帝並立


f:id:gonikyuroku:20191006080029j:image

どうも未来の日本史博士です。

さて、日々より多くの方々に天皇の存在の重要性を理解してもらうべく、天皇を主人公として歴史を語っているわけですが、そろそろ有名な人物がごろつき始めたなぁというあたりまで続けてくることができました。先日、ブログを本格的に開始してから半年が過ぎたころに通算2600PVを達成できました。1日のPV数も50を超えてくることが多くなってきたので目指せ100PV/日!という訳で今回も精一杯歴史を語っていきます。

さて、前回は安徳天皇の即位で終わったので今回はその続きからですね。

ここからは急展開ですので瞬き禁止ですよ!

 

安徳の即位と清盛の死

安徳が即位するまでには長い道のりがあったのは今まで書いてきたのでだいたい理解して頂けていると思いますが、改めて振り返ると上手に世渡りをしていたんですよね~。皇族の護衛をして気に入られ、摂関家や僧にも名誉に傷をつけないように間を取り持ちつつ最大限に権力を利用していたわけです。そして自分の娘・徳子を高倉天皇に入内させることに成功し、ついには誕生した孫の安徳(言仁親王天皇を即位させることにまで成功したのです。

f:id:gonikyuroku:20191006080041j:image

安徳天皇
しかし、安徳即位の直前の「治承三年の政変」から評判が悪くなり始めました。

じゃあ何が悪かったのか?

簡単に言えば横暴ですよね。特に顕著に表れているのが悲願だった安徳の即位です。とにかく院政を敷いて自分の権力を保ちたかった後白河を差し置いて(あろうことか幽閉までして)安徳を即位させてしまったのです。同時に人事も刷新して敵対する公家を排除して公家衆の不満が爆発しました。

さらに安徳即位後の最初の行幸石清水八幡宮などを差し置き厳島神社にしようとしたことも伝統を重んじる公家の怒りを買いました

f:id:gonikyuroku:20191006080209j:image

(岩清水八幡宮

上記の事情は宗教界からも反発も招き、さらに福原(兵庫・神戸)へ遷都を決断したことが皇族、公家はもちろん都の鬼門を守る立場にあった延暦寺からは猛反発です。f:id:gonikyuroku:20191006080100j:image

比叡山延暦寺、ちょうど先日NHKブラタモリで取り上げられてましたね)
ちょうど同じころに後白河の第三皇子の以仁王源頼政の挙兵によって広がりつつあった反乱の芽を図らずも育てる羽目になってしまったんですね。

さらに平家にとって不幸は重なり、戦乱の中で東大寺興福寺を焼いてしまうという失態も。

f:id:gonikyuroku:20191006080110j:image

(言わずもがな東大寺

そしてじわじわと情報が広がり、多くの人に以仁王の挙兵に同調して挙兵します。その中に源頼朝木曽義仲らがいます。彼らは富士川や俱利伽羅峠で勝利して都に近づいていました。

その中でついに清盛の生命の灯が消えます。後世に伝わる話では体を冷やすために湯舟に入ったものの、それが熱湯になった、という逸話も残るほどの高熱にうなされてついに亡くなりました。

二帝並立

清盛が死去した時はちょうど近畿で干ばつが起こっていて京都に食糧がほとんど入ってこない時期だったんです。多数の兵士を抱える平家は滞在し続けるわけにはいかず、丁度源氏方が攻めてきているのもあって西国に落ち延びていきました

f:id:gonikyuroku:20191006080122j:image

後鳥羽天皇
この時に安徳も平家と一緒に西国に向かったので京都に天皇が不在となったため、高倉天皇の三男・尊成親王後鳥羽天皇として即位しました。ちなみに三種の神器は平家が所有していたので言わずもがな平家方はこれを認めませんでした。あくまで後白河法皇の詔のみでの即位なので果たしてどれだけ浸透したかは未知数です。

さて、二帝が同時に存在した一時期に関してはまた次回を乞うご期待!

平清盛の勢力拡大と劣勢の後白河上皇

どうも未来の日本史博士です。

前回に引き続き今回も後白河上皇院政期のお話です。そして平治の乱によって後白河の信頼を得た平清盛についても解説します。ではでは早速始めましょう。

≪今回のキーパーソン≫

院政 後白河上皇 院政1158年~1192年
今回の時代(1159年~1180年)の天皇 78代二条天皇
79代六条天皇
80代高倉天皇
81代安徳天皇
在位1158年~1165年
在位1165年~1168年
在位1168年~1180年
在位1180年~1185年
時の権力者 平清盛
近衛基実
松殿基房
参議太政大臣
正一位摂政関白太政大臣
摂政関白太政大臣

天皇の移り変わりと清盛

たとえ天皇の歴史について解説するブログとは言え、突然清盛に登場されても謎が深めるだけだと思うのでこちらで軽く紹介しているので良ければ読んで頂ければ。 

gonikyuroku.hatenablog.com

 さて、清盛は後白河にとても気に入られて参議、内大臣に昇進します。ただ、その間の1165年に二条天皇崩御し、六条天皇が即位します。

f:id:gonikyuroku:20190901003135j:image

  (二条天皇)          

 f:id:gonikyuroku:20190901003141j:plain

六条天皇
亡くなるまで後白河と政権を争い、二頭政治を敷くも後白河勢力の地盤が強固になりつつあった最中の出来事でした。ちなみに六条は最年少の0歳7か月で即位しています。まだ赤ちゃんだったため即位式中に泣き出して授乳させたというエピソードがあります。

そのため摂政・藤原(近衛)基実が義父の清盛と共に政治を主導しますが、基実が翌年に亡くなり、後白河の院政が本格的にスタートします。

平清盛の共存共栄策

清盛の昇進は止まらず、1167年に教科書でおなじみの太政大臣に武士として初めて任命されました。また、藤原摂関家に伝わっている教え「天皇と共存共栄」という信念を受け継ぎ、娘の徳子を高倉天皇(1169年に後白河の意向で六条が退位、高倉が即位)に入内させて安徳天皇を産んだことで外戚として完全に政権を掌握しました。

f:id:gonikyuroku:20190901003309j:image

高倉天皇
高倉の即位の時に清盛は病を理由に出家しています。自分の院政を盤石にしたい後白河と平氏と繋がりのある清盛の意見が一致した結果の出来事だったのでしょう。ちなみに六条は上皇になった後(この譲位を最年少)に13歳で崩御します。六条の治世は亡くなった二条と基実の遺産の分配くらいだといわれるほど在位は短く、権力は無かったようです。

清盛の専横

はじめは後白河と協調関係にあった清盛も荘園からの税収や日宋貿易による利益で莫大な資金を手にして官位官職を独占した挙句、清盛の専制に移行していきます。後白河も清盛の長男・重盛が亡くなった際に、知行国の越前を没収するといった攻撃に出ますがその甲斐もむなしく、1179年の治承三年の変が起こります。平氏の方針に反抗する勢力を潰し、後白河は幽閉されました。いろいろと評価は分かれますが、後白河と仲良くしていれば政権も長命だったともいわれますね。

さて、翌年の1180年には高倉を譲位させ、安徳天皇が即位します。

f:id:gonikyuroku:20190901003352j:image

安徳天皇
高倉は院政に移行させられますが、何もできず翌年21歳で崩御しました。

様々な平氏の行動が災いして皇族、公家、寺社からの反発が強まるんですが、そこからの一連の流れは次回にて。

というわけで今回はここまでにします。次回以降乞うご期待!

番外編 平清盛の半生

どうも未来の日本史博士です。

さて今回は後白河の院政シリーズ第三弾の平清盛の回とリンクする内容で本編を読んでいただければ分かると思いますが、有名とはいえ突然登場しても困惑する読者もいらっしゃると思うのでざっくり語るための番外編です。

平清盛の誕生


f:id:gonikyuroku:20190901002222j:image

平姓なのでまあだいたい想像はつくでしょうが、先祖を辿ると源氏と同じく皇室に繋がるんです。しかも桓武天皇からの子息から流れが来ているので桓武平氏と呼ばれます。


f:id:gonikyuroku:20190901001850j:image

家系図作成本舗さんから引用してきました)
その一族・平忠盛の長男として生まれ、祖父・正盛や父・忠盛は北面の武士として白河上皇院政からずーっと仕えていて、そのバックグラウンドが存在する中で跡を継ぎました。


f:id:gonikyuroku:20190901001940j:image平忠盛

後白河からの信頼は厚く延暦寺の僧兵が清盛の郎党が起こした騒動の責任を取らせるために流罪を要求した際、後白河は全力で守っています。

また安芸守となって瀬戸内海を掌中に収め厳島神社を創建し、信仰します。 


f:id:gonikyuroku:20190901001916j:image

保元・平治の乱

保元の乱では後白河天皇源義朝と協調して勝利を納めました。しかし、義朝と軋轢が広がり、そのまま平治の乱に突入しますが、ちょうど熊野へ行っており、後白河・二条天皇が幽閉されます。しかし大急ぎで京都に戻り、義朝と藤原信頼に協力する風に見せかけて、後白河・二条を奪還し流れを大きく変えました


f:id:gonikyuroku:20190901001926j:image
結果、大勝に終わり、権勢はさらに広がることになるのです。

その後

ここからは本編にて解説していきますので、そちらでお楽しみください。

 

後白河の院政と平治の乱


f:id:gonikyuroku:20190821173509j:image

どうも未来の日本史博士です。

しばらく時間が空きましたが、前回に引き続き後白河天皇についてです。ちなみに更新していない無い間に槍ヶ岳縦走していましたので姉妹ブログにてつらつらと書いていきます。

では、早速始めます。

 

後白河の譲位

そもそも保元の乱以前から藤原信西が実権を握っていました。なぜなら信西鳥羽天皇の寵臣だったからです。そのため戦後に信西が主導権を握り(この時後白河は傀儡でした)保元の荘園整理令を公布しています。

その後、近衛天皇の母で鳥羽の寵妃として実権を持っていた美福門院得子と信西が話し合って後白河に譲位させて二条天皇が即位しました。

信西と二条側の確執


f:id:gonikyuroku:20190821172437j:image

二条天皇

藤原信西の排除を目論んで二条天皇の側近が立ち上がった、これが平治の乱です。もう少ししっかりと解説すると、二条側の公卿たちは親政(天皇直接の政治)を行いたかったのですが、信西が絶大な権力を基盤として後白河院政を推し進めようとして不仲になりました。さらに後白河陣営の中でも信西と権力争いをしていた藤原信頼が台頭してさらにややこしい状況になっていました。そこに源平の争いもあったんですがここでは多くは書きません。

平治の乱


f:id:gonikyuroku:20190821172506j:image

藤原信頼NHK大河・平清盛

この三つ巴の対立が爆発したのが1159年の平治の乱です。信頼と源義朝(頼朝の父)が組んで平清盛がいない隙を狙って二条天皇後白河上皇がいる御所に攻め込みました。f:id:gonikyuroku:20190821172818j:image
そして信西を殺害、二条、後白河を幽閉します。

f:id:gonikyuroku:20190821172635j:image信西の首)

が、熊野にいた清盛がすぐさま二条天皇六波羅に脱出させ、後白河は自力で脱出して反撃に出ました。この時すでに信西が殺害されていたので後白河には無関心で脱出しやすかったようです。これを知った義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したというエピソードが残っています。それくらい大きな出来事であったのは間違いなく、その後は多くを語るまでもなく二条派と清盛の圧勝で終わりました。

f:id:gonikyuroku:20190821172836j:image(引用:歴史まとめ.net)

二条派が立場をころころと変えたのでじっくり調べないと分かりにくいんですが、ざっと書くとこんなストーリーですね。

次回後白河の院政平清盛の台頭です。

後白河天皇と京都の動乱

どうも未来の日本史博士です。

最近古文書を読めるようになろうと試みて、勉強していて、おかげさまでブログの更新がおろそかになってしまいました。ともあれ、前回後白河が即位したところで終わっているので今回はその続きから始めます。

 

今様に没頭した遊び人


f:id:gonikyuroku:20190802220559j:image

後白河と聞くと歴史の転換点に在位していたからか、とても賢い人というイメージが強いですが、実際そうではなく「今様」という流行歌にハマって政治への関心などなかったようです。だからその即位の時に鳥羽上皇から「即位の器にあらず」と罵倒されていました。

では何で即位することになったのか?決定権は鳥羽上皇にあったのに…。ここには伝統という縛りがあったのです。鳥羽の子である75代崇徳、76代近衛と皇位が移り、近衛が崩御した後、同じく鳥羽の子である雅仁親王(後白河)の子・守仁親王を後継者にしようとしましたが、今まで父を差し置いてその皇子が即位した前例が無かったので仕方なく雅仁が後白河として即位しました。実際保元の乱の3年後に守仁を二条天皇として即位させています。

ちなみに承久の乱の後鎌倉幕府が、江戸後期に徳川幕府が先例を破って父を差し置いて皇子を即位させています。まあその件に関しては時期がくれば解説します。

保元の乱


f:id:gonikyuroku:20190802220612j:image

さて、長々と前置きをしましたが、後白河の治世について。今回のメインは保元の乱ですが、何故勃発したのか?という点について解説しましょう。そもそも後白河の2代前の崇徳は近衛の崩御の後、したたかに治天の君のポジションを狙っていました。なのに鳥羽上皇は後白河を即位させました。そしてその後すぐ、鳥羽が崩御したので崇徳と後白河の不仲は決定的なものとなりました。

1156年7月5日(鳥羽の崩御から3日後)後白河は関白・藤原忠通と結託して崇徳を「謀反人」として没落させます。対する崇徳も忠通の弟・頼長の味方に引き入れ対抗します。そこに源平の争いが混ざって保元の乱が勃発します。


f:id:gonikyuroku:20190802220619j:image

その後は知っての通り、7月11日未明に崇徳が籠城していた白河殿が放火され決着。後白河陣営の圧勝に終わりました。まあ崇徳は讃岐に流されて皇室を呪いました。


f:id:gonikyuroku:20190802220625j:image

そして先述の通りに保元の乱の3年後に二条に譲位、後白河の院政が始まるのです。

次回、後白河の院政平治の乱です。

鳥羽上皇と院政の確立期

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回に引き続き白河上皇院政について、そして鳥羽天皇について解説します。前回の記事の最後の方に鳥羽天皇白河上皇の豹変について書きましたが、その辺りからじっくり語っていこうと思います。

さて前回の記事はこちらから。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

 

では早速始めましょう!

 

鳥羽天皇の即位


f:id:gonikyuroku:20190716180255j:image鳥羽天皇

突如崩御した堀河天皇に代わって74代の鳥羽天皇が即位しました。でも即位している間は全ての実権を白河上皇に握られていました。人事権を乗っ取り、院近臣や北面の武士と呼ばれる人々を自分の周りにつけて専制政治を行った白河を前にして若年の鳥羽は為す術もなく、院政が本格化していきます。堀河治世下ではまだ摂関家に力はあったのですが、鳥羽治世下の摂政関白・藤原忠実は未熟が故に白河と論争になり警戒されて罷免されるという事態に発展するほど仲が悪くなり、白河に対抗するどころじゃなかったんです。鳥羽も何もできないまま息子の崇徳天皇に譲位させられています。

f:id:gonikyuroku:20190716180325j:image崇徳天皇
ちなみに崇徳の母は白河の愛人なので鳥羽は「叔父子」と呼んで冷遇したとか。この行為が後々大問題を引き起こします。

鳥羽が完全に無力の状態は1129年に白河が77歳で崩御することで終わりを迎えます。

鳥羽、悲願の政務履行

ここから白河と同様に28年もの鳥羽の院政が続くことになります。まず白河院政への反発から白河に罷免された藤原忠実を関白に復帰させて、崇徳を前述の通り疎んで1141年には退位させています。そして崇徳を産んだ待賢門院璋子に代わって美福門院得子を寵愛しました(美福門院が生んだ子が崇徳の次の近衛天皇)。同様に白河の院近臣を排除して自らの側近で固めます。この中にふるわなかった源氏に代わって西国で大活躍した平忠盛(清盛の父)の昇殿を認可しています。

鳥羽の出家と専制

近衛天皇を即位させた翌年(1142年)、鳥羽は東大寺にて出家します。その後近衛は藤原摂関家や皇室の後継者争いに板挟みになったまま1155年に17歳の若さで崩御します。

そうするとまたまた後継者争いが起こり崇徳上皇院政をされたくなかった美福門院の訴えが認められて崇徳の弟・雅仁親王後白河天皇として即位しました。大天狗の登場です。

ここで崇徳と鳥羽の対立が起こるのですが、ここからは次回へお預けですね。

という訳で次回かの有名な保元・平治の乱についてです。

祝!世界遺産登録・仁徳天皇陵古墳とは何ぞや?について大解剖!!

どうも未来の日本史博士です。

大阪に住む当方にとってはサミットが一段落着いたころにまた嬉しい話題がきてとてもウキウキしております。そんなわけで仁徳天皇陵について詳しく解説していきます。(この記事は以前書いた二つの記事の追記、再編集ver.です)

そもそも仁徳天皇とは?

f:id:gonikyuroku:20190227181818j:image

古代の天皇のなかでは割と有名な天皇ですね。何せ大阪を作った人物ですから。あれ?秀吉は?って人がいると思うので言っておきますが、仁徳は地形を作ったんです。淀川の流路を整備したりしています。詳しくは後述します。

昔の一円札になっていたり朝鮮に出兵した神功皇后の息子、応神天皇の第4皇子です。また倭の五王の一人ともいわれて朝鮮に出兵したり、中国に朝貢したり…アクティブだったんですね。

そして仁徳天皇は実在すると言われている最初の天皇の一人です。その証拠の一つとして高句麗地方に好太王碑文」があり、様々な事績は仁徳天皇の治世のことと考えられています。では一つ仁徳天皇の仁政をあらわすエピソードを紹介しましょう。

ある時宮殿から家々を見た仁徳は炊事の煙が上がっていないことに気付きました。その状況から民が苦しんでいることに気づいた仁徳は3年間課税を免除したそうな。そして宮殿が雨漏りするほどまで仁徳自らも倹約に努めたという。「仁徳」という諡号はこの仁政からきています。いろんな政治をした天皇の中でも敢えてこの天皇に「仁徳」という名前が付けられたのですから、それだけの素晴らしい仁政だったのだろうと思われます。その他にも、例えば、水害を防ぐ日本最古の堤防・茨田堤や、屯倉(朝廷直属の穀物貯蔵庫)を築いたこととかかな。調べてみたところ、寝屋川市にあるようで、石碑が建っています。また灌漑用の池をつくったり、入江や港も造らせたりしました。

f:id:gonikyuroku:20190706222602j:image

(実際に現地に赴いて写真を撮ってきました。)

ではそこまで「神」といった感じだったんでしょうか?

その質問にはこう答えましょう。浮気をしていたんです。人間らしさがあふれていますよね。日本書紀に皇后には磐之媛命がいたんですが、磐之媛命が和歌山の方に旅に出ているすきに仁徳が異母妹を宮殿に招き入れ、妃にしたんですが、それが発覚して怒った磐之媛命は別の宮にこもって仁徳は許しを乞いに出向いたというエピソードがあります。

 

仁徳天皇陵古墳の概要

百舌鳥古墳群の1つ。全国で最も大きな古墳です。面積は濠を含めて約47万平方メートル(甲子園球場12個分)、一日2000人のべ680万人が働いても15年は軽く超えます。正式名称は百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみささぎ)です。明治時代の発掘調査から埋葬されている石棺の形は亀の甲羅のような形をしているそう。石棺の蓋は幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.5メートルほどと推測されています。石棺を覆う石室について、長さは東西に約4メートル、南北に約2.5メートルで、20〜30センチメートルの丸石(自然石)を積んで作られていて、大石3枚でおおわれていたようです。また、石室と石棺よ間から甲冑、ガラスの杯、太刀の金具、鉄刀20本ほどが出土し、堤(濠の外側の部分)から出土埴輪や須恵器から5世紀中頃の築造と考えられています。

仁徳天皇陵アクセス

所在地 大阪府堺市堺区大仙町7

最寄り駅 JR三国ヶ丘駅(駅から徒歩約10分ほどで現地)

もちろん年中無休です。

仁徳天皇陵の写真

正面の拝所

f:id:gonikyuroku:20190327143002j:imagef:id:gonikyuroku:20190327143020j:image

すぐ横に宮内庁の管理所がありました。
f:id:gonikyuroku:20190327143052j:image

横から見た仁徳陵f:id:gonikyuroku:20190327143138j:image

堺市役所21階の展望台からみた仁徳陵(写真中央)
f:id:gonikyuroku:20190327143219j:image

展望階にあった空撮写真(写真右上)
f:id:gonikyuroku:20190327143251j:image

明治時代の発掘

一度明治時代に堀が崩れたらしくその時に立ち入りがあったそうなんです。その時に甲冑が出土したそうで、仁徳陵の隣にある博物館でレプリカを見ることができます。現物はというと発掘された後、絵に写してそのまま埋めたのだとか。盗掘されていなければまだ眠っているそうです。ちなみに発掘場所はここ。米・ボストン美術館にも仁徳陵から出土したといわれている銅鏡などが保存されているそうです。

f:id:gonikyuroku:20190329123727j:image

宮内庁堺市の共同調査

では本題にいきましょう。

まずは調査された地点です。

f:id:gonikyuroku:20190330095340j:image

(イメージ)

何故、内側にはなかったのでしょう?先程の資料ではこのように考察しています。

このことについて、現段階では以下の3通りが推測される。

築造当初から埴輪列が存在しなかった。

②波浪の浸食などにより堤が崩落した際に埴輪列も失われた。

③並べられた埴輪の間隔が広く、今回設定したトレンチの幅では埴輪列が確認できなかった。(同上)

識者の方ではこのように考察したそうですね。今後の調査に期待しましょう。

もう一つ仁徳天皇陵に石が敷かれていたという点についてお話しします。普通、古墳の斜面部分に崩落を防ぐ目的で石を半ば埋め込む形で敷きますが、今回の調査で堤の表面にも石が敷かれていたことがわかりました。より豪華に見えるように作ったんでしょうね。ちなみに石敷きと同一面に埴輪列があるので築造当初の遺構と考えられています。

 

世界遺産に登録されたもののどうやって観光資源にするのか、まだまだ未知数な部分も多いです。(大仙公園に展望塔はありますが...)

f:id:gonikyuroku:20190706222658j:image
ときたま「何もない」と言われていますが、とても素晴らしい歴史的価値の高い遺産です。ただ周囲から見ても森のようにしか見えないのも事実です。

とにかく今後の対応について楽しみにしておきましょう!

 

 

りんくう公園から関空眺めてみた!

どうも未来の日本史博士です。

以前からG20についていろいろ話を聞いたり、ニュースを見たりすることが多いんですが、各国首脳が伊丹空港関西国際空港に到着するという情報をニュースで見ていたので6/27にりんくうタウンに向かい遠目で関空を眺めていました。f:id:gonikyuroku:20190706074954j:image
あいにくの雨で中国の習近平氏の到着が見られなかったんですがいくつかの国の飛行機や海保、警察の船舶、ヘリが見られたので写真と共に紹介します。

サミット参加国の専用機


f:id:gonikyuroku:20190706073922j:image

この日雨でとても視界が悪かったんですよねー。でも分かりますよね?トルコです。


f:id:gonikyuroku:20190706074010j:image

こちらがエジプトです。


f:id:gonikyuroku:20190706074105j:image

セネガルG20のメンバーに入ってはいませんが招待国としての来日となりました。

今回まだ状態が良かったのが以上の3カ国です。そもそもアメリカとかは伊丹なんで会えなかったですねー。

海上保安庁・警察


f:id:gonikyuroku:20190706074302j:imagef:id:gonikyuroku:20190706074315j:image

あぁ、かっこいい!こちらおそらく関空に元々駐屯している「MHスーパービューマ225(みみずく)」ですかね?中国が来日したであろう頃に何度も何度も旋回していました。


f:id:gonikyuroku:20190706074512j:image

しっかりと船舶も警備していました。関空に何十台か出動させたらしいんですが、当方が見ることが出来たのはこの1隻だけです。


f:id:gonikyuroku:20190706074653j:image

大阪の警察かと思いきや、福井県警ってボディに書いてあるんですよ。全国から警察が集合しているんだろうなーって分かりますね。

(ついでに)周辺の警備


f:id:gonikyuroku:20190706075055j:image
f:id:gonikyuroku:20190706075107j:imagef:id:gonikyuroku:20190706075124j:image

多数の警察車両とバリケード、使用禁止のゴミ箱。サミット感が如実に現れていますね。

院政の黎明期~白河天皇の治世~

どうも未来の日本史博士です。

今回は幕末まで続く院政を始めた白河天皇の治世についてです。天皇の中でも数々の逸話を残した白河は面白い人生を歩んでいるのでとにかく始めましょう!

 

 

譲位まで


f:id:gonikyuroku:20190704201719j:image

白河天皇

先代の後三条に譲位されて20歳で即位しました。父である後三条の遺志を継いで荘園整理、そして藤原氏の勢力を削ぐことに力を尽くしました。なので藤原教通・信長親子とは何度も対立しました。

じゃあどうして譲位しようと考えたのか?というのが一つの本題です。

それは、白河の女性関係が関連しています。白河の中宮には摂関家の養女である賢子を寵愛しました。賢子との間には善仁親王という子がいました。その子の即位によって摂関家の権力の再興を恐れた後三条、反摂関家派の貴族が善仁親王の即位に反対して白河の弟を皇太子に指名しました。

が、しかし、転機が訪れます。皇太子の人物が薨去したのです。もう一人弟がいたんですが、そっちのけですかさず善仁親王を皇太子にして、そのまま即位しました。先ほどの皇太子だった人物が薨去する前年に愛する妻・賢子を亡くしていることもあってどうしても自分の息子を即位させたかったようです。ちなみに賢子が亡くなった時にその遺体を抱いて離さなかったと言われています。

院政の開始

先述の通り院政を始めることが目的で譲位したわけではなかったんですね。でも善仁親王堀河天皇として即位したのはたったの8歳!さすがに政務を執れません。だから後見人に自らがなることで摂関家を抑え、亡き愛妻の子を見守り続けたんです。

 

院政によって摂関家が衰えたというのが教科書に書いてある一般的な論ですよね。でももともと白河は摂関家と仲良くやっていたんですよ。藤原頼通の息子・師実とも協調しており、成人した堀河と師通(師実の息子)が親政をしようとしていた時があったんですが、なんと成功しています。白河は黙認していたのです。

f:id:gonikyuroku:20190704201747j:image(藤原摂関家系図

が、しかし、堀河が29歳で崩御した後、白河が豹変します。師通が亡くなりその息子・忠実が若くして摂関家の当主になり、堀河の孫の鳥羽天皇が即位し、ガラッと情勢は変わりました。周りに政治権力をもった人がおらず完全に実権を掌握しました。人事権を乗っ取り、院近臣や北面の武士と呼ばれる人々を自分の周りにつけて専制政治を行いました。そして立太子や譲位、関白の職権停止なども操りました。

白河上皇については書きたいことも多いので次回に続けます。