そもそも原爆ドームって何だったの?など4月5日の出来事
新生活が始まって落ち着きはじめた頃でしょうか?
四月も始まってはや5日、過去のこの日に何が起こったのかまとめてみました。
イースター島の「発見」
- モアイ像のあるイースター島
- 文明が崩壊した理由は諸説ある
原爆ドーム竣工
2022年のこの日はロシアによるウクライナ侵攻によるニュースが世界を騒がせているように戦争の話題が絶えません。戦争によって潰される建造物が多いことには嘆かれますが、この原爆ドームもそんな運命をたどった建造物の一つです。
原爆ドームはそもそも「広島県物産陳列館」という名前で1915年のこの日に竣工され、広島の物産の販路を拡大することが目的でした。その後「広島県産業奨励館」と名称変更がなされ、日本で初めてバウムクーヘンが作られたこともあったとか。
結局戦時中には行政の一施設として原爆投下を迎えました。
投下後の話はまた8月6日にしましょう。
- 後の原爆ドームにあたる広島物産陳列館が竣工
- 広島のプロモーション、行政施設の一翼を担う
イタリア・ファシスト党選挙勝利
今日のラインナップは以上です。
また明日に期待!
明治維新後の沖縄の行方は?など4月4日の出来事
そろそろ新学期が始まりますね。
世の中物騒でしたが、かつての4月4日にはもっと歴史的な出来事がありました。
4月4日の歴史上有名な出来事を抜粋してまとめてみました。
沖縄県設置
北大西洋条約が締結
このご時世なので敢えて話題に出してみました。この条約を元に1949年に発足したのが北大西洋条約機構(NATO)です。昨今のウクライナ情勢をめぐって、NATOの動向に視線が注がれていますが、この源流はここにあったのです。
いずれにせよ、ウクライナ問題の一刻も早い解決を望むばかりです。
キング牧師の暗殺
I have a dream. (私には夢がある)
I've been to the Mountaintop.(私は頂上に行ったことがある)
ちなみに、「おしん」の放送開始日やダウンタウン結成の日でもあります。
また明日に期待!
長篠の戦いに負けた武田勝頼と家臣団のその後とは?など4月3日の出来事
今年度3発目は「今日は何の日」からどうぞ。
4月3日の歴史上有名な出来事を抜粋してまとめてみました。
天目山の戦い
中学の日本史でも習う長篠の戦いで足軽鉄砲隊を操る織田信長、徳川家康に敗れた武田信玄の息子・勝頼は本拠地である甲斐(今の山梨)に撤退していました。また小田原の北条氏や越後の上杉氏との関係もうまくいっていませんでした。
しかも相次ぐ戦いや重税によって勝頼への信望も徐々に弱まり、甲斐(山梨)の天目山にてごくわずかな手勢で戦うも奮戦空しく自害しました。
なお、武田家の家臣団の残党は徳川家康が受け入れ、また家康は自分の5男であり、母が武田家とつながりのある信吉を武田姓にして名跡をつがせました。
家康の武田遺臣団はおおいに家康の天下統一に貢献しましたが、信吉は病弱であり、若くして亡くなったことで武田家は断絶してしまいました。
南北戦争:リッチモンド陥落
アメリカの歴史の中でもかなりの死者を出した南北戦争。よく「シビル・ウォー」とも言われますが、アメリカ人だけでは太平洋戦争よりも死者が多いとか。そんな南北戦争の4年目の1865年についに決着が見えます。それが南側・アメリカ連合国の首都・リッチモンドの陥落です。
日本の開国、明治維新のころ、アメリカは南北戦争の影響からあまり日本とのかかわりは少なかったですが、南北戦争終結後はアメリカの世界進出が始まり、日米の対立が始まることになります。
ヨシフ・スターリン、ソ連のトップへ
今ウクライナ情勢で世界を騒がせているプーチン。彼はソ連の秘密警察から出世した人間であり、ロシア自体もソ連の名残がはっきりと残っています。
あまり良い話題のないソ連ですが、その最盛期ともいえるスターリン独裁時代が始まったのがこの日です。
この日、スターリンはロシア革命の主導者であり、ソ連建国の立役者・レーニンの後継者として中央委員会書記長に選任されました。その後、世界中が世界恐慌に苦しむ中、5か年計画を進め、工業国として大きな力を持ちます。世界中の社会主義国、共産主義国のリーダーとしてソ連崩壊まで20世紀・冷戦期に東側のリーダーになります。
一方でスターリンは多くの側近や人民を粛清したことでも有名で、ソ連国内ではスターリンの政策の失敗により多くの餓死者が出たそうです。
そのほかにもリニアモーターカーの実験の開始日だったり、初代iPadの発売日でもあります。
また明日に期待!
4月2日は何の日?-アラファトがパレスチナ大統領に就任など
今年度2発目は「今日は何の日」からどうぞ。
4月2日の歴史上有名な出来事を抜粋してまとめてみました。
コンスタンティノープル攻防戦
これは世界史のお話。コンスタンティノープルというのは今のトルコの大都市イスタンブールの旧称で、かつてこの地を支配していたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都として、ギリシャ正教会の総本山として重要な都市でした。
そこにイスラームの大国オスマン帝国が1453年に襲いかかりました。なかなか陥落しないことに痺れを切らして、近くの山を船ごと越えて最後は総攻撃をかけて攻め落としたそうです。
この結果、トルコ周辺はイスラーム化し、今でも根強い勢いを保っています。
江戸歌舞伎が始まる
初代中村勘三郎が江戸に中村座を置いた日です。そもそも歌舞伎は出雲阿国という人物が阿国歌舞伎を創始し、その後は女性、若い男性が主体でした。しかし、江戸幕府により規制が入り(風紀を乱すという理由で)、野郎歌舞伎という現在まで続く形態になったのです。その後も火災や幕府の規制を乗り越えて東京での名物であり、重要な日本文化として残っています。
- 中村座が開かれた日
- 江戸で野郎歌舞伎が残り、今に伝わる
橿原神宮創建
橿原神宮は初代天皇神武天皇を祀る神社です。明治維新の後、日本人に天皇の尊さと臣民としての意識を植え付けるために皇祖である神武天皇を神格化させるために1890年に創建されました。ここにはもともと神武天皇の宮殿があったとか。
今でも折にふれて皇族の方々が来られることがありますね。
神武天皇についてはこちらで詳しく解説しています。
アラファト、パレスチナの大統領に
よく日本でもニュースになりますが、パレスチナは第二次世界大戦後にイギリスとの協定に基づいて、今のイスラエルのある地域にユダヤ人が入植した際に、現地にいたアラブ人らが今も残っているイスラームの地域です。中東戦争を経て、オスロ合意という協定によってパレスチナ暫定自治政府が発足したときにアラファトという人物が大統領になりました。PLO(パレスチナ解放機構)の代表としても積極的に活動していましたが、のちに和平姿勢に転換して1994年にはノーベル平和賞を受賞しました。
しかし、いまだにパレスチナ問題に光明を見出せる解決策はなく、戦闘も度々起こっています。
4月1日は何の日?-史上最悪の火災・明暦の大火など
改めて新しい形で再始動します。
今回からレイアウトと内容を大きく変えていきます。
どうぞよろしくお願いします。
今年度一発目は「今日は何の日」からどうぞ。
4月1日の歴史上有名な出来事を抜粋してまとめてみました。
明暦の大火
江戸時代、ひいては日本史上類を見ない火災事故となった別名「振袖火事」ともいわれる明暦3年に発生した大火事です。
当時江戸幕府は4代将軍徳川家綱と先代家光の弟・保科正之が政務を執っていました。
この火事では江戸城のほとんどが(天守閣も)焼け落ちただけでなく、江戸市街の町民が多く亡くなり、その数は数万とも十万を超えるとも言われています。
この火事をきっかけに火事に対応した都市計画がなされ、日除地や広小路が設けられました。また都市内の住宅構成が変化したりして、その名残や名前は今の東京23区内に多く見られます。
南満州鉄道株式会社設立
南満州鉄道株式会社は通称「満鉄」で知られる戦前に大きな力を持った鉄道会社です。日露戦争終結後に設立されたのち、半官半民の国策会社として鉄道運行以外にも鉱山やホテルの運営などに携わりました。
その大きさと政府に近かったこともあり、張作霖爆殺事件や満州事変といった満州で起こった関東軍の謀略にも巻き込まれ、満州国成立後も大きな力を持ち続けたものの、終戦後解体しました。
- 半官半民の巨大な国策会社
- 満州国の運営に関与
- 鉱山やホテルなども経営
沖縄戦開始
日本人なら忘れもしない45年のこの日。組織的戦闘が終結する6月末まで本土決戦に備えるために決死の抵抗が行われ、日米両軍で20万人が亡くなるなどおびただしい損害を出した戦闘です。戦後のアメリカ側の調査でも沖縄ほど激しく、また損害の多かった戦闘はほかに無かったといい、それだけ過酷なものでした。
日本においても沖縄戦ではひめゆり学徒隊などの悲劇的な最期が語り継がれていたり、いまだに土地の一部を米軍が基地利用していたりと問題は残っています。
- 民間人含め20万人が亡くなる
- 今なお米軍とも問題は残る
シンガポールがイギリスの植民地に
マレーシアなどと合わせてイギリス植民地として管轄されていました。
交通の要衝としていまだに栄えていることを考えると戦略的に重要度の高い地域だったのは間違いありません。そんなシンガポールも太平洋戦争の時に一時的に日本軍に占領され、「昭南島」と呼ばれていました。この時期には日本軍による華僑への大量虐殺があり、のちに首相リー・クアンユー氏は「許しはするが忘れはしない」と述べています。現在は経済力もあり、教育水準や技術力も高い先進国としての地位を確立しています。
- かつてはイギリス領
- 日本ともよくも悪くも関わりが深い
- 経済力も技術力も世界最高水準
イラン・イスラーム共和国建国
以外に知られていませんが、かつてのイランは親米国でした。しかし、親米の国王への不満からイスラーム革命が勃発し、ホメイニ師らイスラーム法学者による統治が行われる国に変貌しました。以来、アメリカへの反発は強く、原油禁輸措置をアメリカが行ったことにより、日本も貿易が困難になっています。
持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説④
どうも未来の日本史博士です。
今回も引き続き両統迭立について解説します。
前置きにすることも特にないのでさっそく始めましょう。
登場人物
さすがに両統迭立の状況下で天皇の御名を連ねてもややこしくなるだけなので、ちょっと表にまとめてみました。
持明院統 | 大覚寺統 |
(88代後嵯峨天皇) | (88代後嵯峨天皇) |
89代後深草天皇 | |
90代亀山天皇 | |
91代後宇多天皇 |
主張・後嵯峨上皇と亀山上皇と後宇多天皇側(大覚寺統)
そもそもどうして亀山の血統を大覚寺統と呼ぶのかですが、亀山の子である後宇多が大覚寺で院政を行ったことに起因しています。いわゆる南朝です。
後嵯峨は亀山を寵愛しているので、亀山の子孫を天皇にすればいいと考えていました。
しかし、無条件で後深草の血統を無視するのも良くないと考えたのか、帰属先を巡って揉めていた長講堂領という皇室が保有していた巨大な荘園を後深草の血統に受け継がせることにしました。
主張・後深草上皇(持明院統)
こちらは後深草の子(将来の伏見天皇、後述)が持明院を御所としたことからこの名で呼ばれることが分かりました。いわゆる北朝ですね。
後深草としては自分の子どもを差し置いて弟の血統のみが優遇されるのが不服でした。そりゃ、そうですよね。しかも一つの領地で収拾を図ろうとするなんて。
そこで異議を鎌倉幕府に申し立てました。
判断・鎌足幕府の考え
特に悪いことをしたわけでもないのに、不当な扱いを受けるのはおかしい!として亀山を説得しました。そして折衷案が後深草の子・煕仁親王を亀山の猶子(養子よりも軽い繋がり)として皇位を継がせるというものでした。そしてその後は両統が交互に皇位を継承することにしました。これが両統迭立です。
幕府としては元寇の後の恩賞などを巡って混乱しているのにさらに皇室でも問題ごとを起こされてはたまらない、という北条時宗の考えだったみたいです。
しかし、朝廷内での軋轢が次第に幕府に矛先が向き始めて徐々に討幕へと傾き始めます。
今回は短めでしたが、次回は後醍醐天皇の即位直前まで一気に進むつもりです。
乞うご期待!
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持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説③
どうも未来の日本史博士です。
今回は両統迭立シリーズ第3弾ということで前回に引き続き解説していきます。
前置きはこのくらいにして早速始めます。
亀山天皇の即位
ちょうど90代亀山天皇の治世の頃は元寇が襲来したころです。前回の記事でも紹介しましたが、89代後深草は内向的だったのに対して亀山は明朗快活で頭脳明晰だったため、二人の父・88代後嵯峨は亀山を優遇しました。このことが後々大きな騒動になるのですが一旦置いときます。
1259年の亀山の即位からおよそ6年後、元の皇帝・フビライから親睦を求めた親書が送られてきます。
政治の中枢は幕府なので親書自体は幕府経由で朝廷に提出されたんですが、幕府の意向として親書の返信をしないことを決定します。
朝廷のメインの仕事は国の安泰を願って祈りをささげることなので(今も概ね変わっていません)すぐに祈祷を始めます。その一方で幕府側は御家人に開戦の準備をするように命じます。
鎌倉では日蓮が布教活動を行い、幕府内では6代将軍宗尊親王を4代将軍藤原頼経の二の舞を防ぐべく更迭し、息子の惟康親王を7代将軍に据えます。
余談ですが、亀山天皇の像が福岡の方にありますね
後嵯峨上皇の崩御
そんな不安定な情勢の中、後嵯峨上皇が崩御します。この時の遺産相続をめぐって後深草と亀山が揉めることになるんですが、結局後深草が冷たくあしらわれ、亀山にほとんどの遺産が流れ込みました。
後宇多天皇の即位
亀山としてはどうしても自分の息子に皇位を継がせたい、と思っていましたが、それhが後深草も同じです。どちらも人の親ですから。
そこで亀山は息子・世仁親王の母(つまり自分の皇后)が高い位であることを利用して、1274年世仁親王を91代後宇多天皇として即位させました。
まあ後深草も黙っていたわけではなく、後々になって反撃を始めるんですが、これも元寇が終わってから。ちなみに後宇多の外祖父は洞院実雄という人物で後の伏見、花園天皇を含めて、三天皇の外祖父となっています。その実雄の孫・公賢は太政大臣に、さらにその孫・公定は「尊卑分脈」というとても重要な資料を編纂しています。
元の襲来
さて、1274年の超有名な出来事といえば何でしょう?
もちろん、元寇ですね。特にこの時は文永の役です。そして1281年には弘安の役も起こります。
弘安の役の時は亀山上皇自ら石清水八幡宮に参上して祈祷して、結果的に神風と呼ばれる嵐が起こり、撃退に成功しました。
皇室としては十分に役目を果たしたのでした。
その後の鎌倉では恩賞がない、すくない、という不満が爆発するんですが、皇室では後継者問題を後深草について鎌倉に訴えていました。
次回、幕府の判断と両統迭立体制の確立です。乞うご期待!
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持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説②
どうも未来の日本史博士です。
北条義時の物語が大河ドラマ化することになりましたね~。今回のお話は義時の時代のしばらく後ですが、その時代の話は承久の乱シリーズ辺りにまとまっていると思うのでぜひ読んでください。
今回こそ南北朝の動乱の直接的な原因となった両統迭立についての解説をしていきます。
何はともあれ始めちゃいます。
後嵯峨天皇の即位
そもそも88代後嵯峨の即位にもひと騒動あったのでそのあたりからお伝えしていきます。
もともと承久の乱の後に82代後鳥羽の血筋を廃すべく、無理矢理86代後堀河を皇位につけたわけだったんですが、87代四条がたったの12歳で崩御したため跡継ぎがいなくなりました。
(sirdaizine.comさんからの引用)
そこで時の権力者・九条道家と西園寺公経はかつて幕府打倒を掲げて承久の乱に参加した84代順徳の子の忠成王を次の天皇候補として推薦しました。でも幕府側からすれば、もしも忠成王が即位すれば父である順徳が上皇として院政する可能性(少なくとも政局に関与する可能性)が出てくることは何としても避けたいことでした。
ちょうど、村上源氏(平安時代の62代村上の子孫)の一派は83代土御門の子の邦仁王を推薦しました。
この状況だと幕府側は間違いなく後者を推すことは目に見えていたにもかかわらず、道家は鎌足幕府執権・北条泰時に意見を求めます。
前回の記事をみてもらえば分かるんですが、北条家は道家の子である4代将軍・藤原頼経との関係が悪化していました。
なので幕府側は道家の権勢を抑えることも含めて邦仁王を推挙、正式に88代後嵯峨天皇が誕生したのです。
宮将軍の誕生
後嵯峨は在位中は西園寺家と親戚関係となり権勢を維持しました。即位から4年後の1246年に時の太政大臣・西園寺実氏の娘との間にできた皇子を89代後深草として即位させ、自らは退位しました。その後20数年に亘って院政を行います。
そのころ鎌倉では北条泰時が亡くなり、将軍・藤原頼経が反北条派と手を組んで北条一族を打倒しようという企みが起こるも、失敗しました。これによって頼経は京都に送還、息子の藤原頼嗣が5代将軍になりました。
(4代将軍藤原頼経)
けれども頼経は諦めません。京都で再起を謀って再び北条一族打倒の策略を練っていました。そこで5代執権時頼は5代将軍藤原頼嗣も京都に送還し、後深草の兄・宗尊親王を6代将軍に据えました。いわゆる宮将軍の誕生です。
ここで後嵯峨上皇、後深草天皇は時頼に協力し、幕府から朝廷への援助を獲得しています。
後継者問題
後深草は女性関係があまり華やかではなかったようで、その点で後嵯峨が弟(後の90代亀山)へ気持ちが傾く原因の一つになったとされています。
後深草が病を患ったことも原因にあるともされていますが、後嵯峨の意向によって後深草は弟に譲位、弟は90代亀山天皇として即位しました。
次回は両統迭立第三弾として後深草上皇と亀山天皇の後継者争いについて解説していきます。
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ぜひよろしくお願いいたします!
持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説①
どうも未来の日本史博士です。
前回まででようやく後鳥羽上皇あたりの一連の流れが終わり、鎌倉幕府自体も中盤に差し掛かってきて、時代としてはもうすぐ元寇だって感じなんです。
という訳で今回は鎌倉幕府滅亡後に起こる南北朝の動乱の引き金となった両統迭立について解説していきます。ここから足利義満(当事者としては後小松天皇)の南北朝合一までシリーズ化していきます。(このブログでは皇室メインの日本史について解説していますので、例えば元寇といった武家政権主導の事などは他のもっと素晴らしいブログを書いておられる方を当たってもらえれば)
今回は直接両統迭立について語ることはありませんが、今回の背景があったことによって両統迭立に至るので今回の記事を踏まえて、次回に期待しておいてください。
前置きが長くなりましたが、早速始めます!
承久の乱以後の朝廷の体制
承久の乱が終わった後、仲恭天皇が退位させられます。鎌倉幕府側としては絶対に後鳥羽の血統から天皇を立てたくないので源平の争乱の時に安徳天皇らに共に壇ノ浦の方まで落ち延びた後鳥羽の弟・守貞親王の子を後堀河天皇として即位させました。
まだ10歳だったので守貞親王自身が後高倉院として院政を行いました。
特例中の特例で天皇ではない人物に太上天皇の位(退位した天皇の証)が与えられたため、ある意味で天皇とも言えますね。
この時に西園寺公経が内大臣として権力を握り近衛家実が摂政として、承久の乱後に人事が刷新されてます。承久の乱あたりの記事を読んで頂ければ分かるのですが、
完全に幕府よりの政権ですね。
北条泰時の執権就任
2代目執権の北条義時が亡くなり、六波羅探題として京都以西を管轄していた息子の泰時が鎌倉に呼び戻されて3代目執権に就任しました。そのまま評定衆を創設して「御成敗式目」を制定、幕府の基盤を固めていきました。
荒れ果てた都
六波羅探題が監視の目を広げる中、自堕落な貴族に比べて治安を維持していた鎌倉幕府への評価が上がっていました。朱雀大路を耕作地にする人が現れたり、内裏が火災によって焼け落ちました。これ以降大内裏が今までの位置に置かれることはなくなりました。
また、飢饉が続き、彗星が出現します。当時、彗星は良くないことが起こる予兆とされていたので、それを避けるべく息子である四条天皇に1232年、譲位しました。後堀河は院政を敷きましたが、2年後に崩御しました。
治安は悪く、天皇自身も無様
北条泰時は四条天皇の即位はあまり乗り気ではなかったのですが、外祖父・九条道家と舅・西園寺公経の意向によって認められました。
しかし、京都の治安は悪化し、寺社同士の争いは激化しました。その反面、1日中火を絶やさず警備を続けた鎌倉武士の評判はとても高かったのです。遠い鎌倉の執権・泰時が励んだ倹約や救民政策の噂は京都にも届いており、鎌足幕府の評価は絶頂を迎えていました。
(藤原頼経)
そんな鎌倉では将軍・九条頼経の処遇が問題となっていました。頼経の父は四条の外祖父・道家であり、頼経本人も成人を迎え北条氏の執権体制に反対する勢力に担ぎ上げられ基盤を固めていきました。鎌足幕府とのパイプ役であった西園寺公経が亡くなり、九条道家が関東申次になりました。北条氏に敵対心を持っていた道家を巻き込んでそれなりに大きな勢力となっていました。
亡き2代将軍・頼家の娘の竹の御所が頼経の正室だったんですが、惜しくも亡くなってしまいます。ここから一気に状況が変わり始めます。
そんな中、四条12歳の時に、いたずらで御所の廊下に滑石を塗って人を転ばせようとしたところ、自分自身が滑ってしまったことによって1242年に12歳で崩御しました。
まとめ
今回は後高倉院という異色の人物、その子孫である後堀河天皇と四条天皇について解説しました。この血統は四条で途絶えるのでここからはまた次回。というわけで、次回後嵯峨天皇の即位から解説していきます!
≪総集編≫承久の乱とは何ぞや?について解説
どうも未来の日本史博士です。
今回は数回に亘ってお伝えしてきた承久の乱と後鳥羽天皇らについてざっくりと解説していけたらと思います。
後鳥羽天皇の即位
より詳しい内容はこちらの記事から。
後鳥羽天皇の生涯は波乱に満ちたものでしたが、その即位も例外ではありませんでした。1183年に平家に持っていかれた三種の神器がないまま後白河法皇の令旨で即位し、その後は後白河と鎌足幕府を開いた源頼朝の政権の傀儡となるだけ。
多くの束縛から逃れたい後鳥羽は1198年に早々と息子を土御門天皇として即位させました。
1192年に後白河が1201年に頼朝が亡くなったため他に権力者がいなくなります。
源実朝と後鳥羽院政
後鳥羽自身は学問にも秀でていました。新古今和歌集の編纂を藤原定家に命じたのも後鳥羽です。
鎌倉幕府の3代将軍・源実朝も宋の文化や和歌に精通していたので後鳥羽が自らの皇子を将軍として送り込むことを約束するほど親密な関係となります。
しかし、実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されると態度は一変。
一気に仲が悪くなり本格的に討幕に向かって傾き始めます。
承久の乱
後鳥羽・順徳(討幕を熱心に唱え退位して加担)側が京都にあった鎌倉幕府直属の機関を襲いました。後鳥羽は執権・北条義時追討の綸旨を出します。
後鳥羽は鎌倉幕府側がおとなしく降参するとたかを括っていましたが、その目論見は完全に外れました。
北条政子の演説も含めて一致団結した鎌倉武士団は一気に京都に侵攻、圧勝した挙句に後鳥羽・順徳らを島流しにしました。
承久の乱は誰のせい?
詳しくはこの記事を見てください。
82代後鳥羽、83代土御門、84代順徳、85代仲恭と彼らに追随、または迫害された公家が承久の乱が終わった後にどうなったのか、解説しています。
おおむね後鳥羽、加えて順徳が首謀とされています。
誰のせいというよりどうして鎌倉幕府側は勝つことができたのか、に重点をおいています。天皇に反抗するつもりはなく、後鳥羽側の侵攻から鎌倉を守るべく集結しただけだったのに…。後鳥羽側は西国の武士をかき集めたのに…。
詳しくは読んで頂ければ分かると思います。
まとめ
承久の乱は時代の流れで誕生した武士団の政権「幕府」と旧来の朝廷による初めての内戦です。だからこそ有名であり、謎がまだまだ残っています。後鳥羽に至っては幕府との融和、対立を経て承久の乱に踏み切っています。彼の心境がどう移り変わったのか、とても気になるところです。いつしか完全に解明されることを期待しましょう!