知る人ぞ知る暗殺事件
どうも未来の日本史博士です。
今回は誰もがその名を知るであろう聖徳太子について解説します。
では、前回の続き、すなわち崇峻天皇から解説していこうと思います。
丁未の乱
そもそも崇峻天皇が即位するまでにいろいろあったんで、そこから書いていきます。
で、ことの発端は用明天皇が崩御した後、物部守屋が穴穂部皇子の擁立を図ったことから始まります。守屋は蘇我氏と血縁関係のない人物を擁立しようとしていたんですが、亡くなってしまったので仕方なく…という経緯で穴穂部皇子の擁立に至ります。
一方の蘇我氏はというと、後の推古天皇となる額田部皇女を擁立して全面対決となります。先手を打ったのは蘇我氏、(ある意味物部氏が軍を動かそうとして蘇我氏が行動を起こしたんですが)馬子が穴穂部皇子を殺害します。すでに両家は仏教の信仰をめぐって対立していたので戦争状態に突入していきます。ちなみに聖徳太子(本名・厩戸皇子)は蘇我氏側についていました。さあ、続きにいきましょう!
蘇我氏が泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)や厩戸皇子を味方に取り込んで、物部氏の拠点・渋川の館を襲います。ちなみに渋川は今の大阪府八尾市にあります。前回の記事を見ていただければ分かるはずなんですが、物部氏って軍事を司る大連という役職についていたんですから戦に関してはエキスパートなんですよ。なので言うまでもなく蘇我氏は苦戦し、たくさんの兵を失ってしまいます。餅は餅屋です。ここで活躍するのがこの後主人公になる厩戸皇子です。彼は霊木を用いて四天王像(仏教の守護神)を作り、戦勝を祈願するとあら不思議。馬子の部下の一人が大木によじ登っていた守屋を見つけて射殺、蘇我軍の勝利に終わりました。これを丁未(ていび)の乱といいます。
(丁未の乱を題材にした絵ですが、こんな立派な石垣や櫓はなかったでしょう)
(ここでは厩戸皇子(つまりは聖徳太子)が守屋を討ち取ったことになっていますが実際は別の人物です。)
その後厩戸皇子は祈願時の約束通り、四天王像を祀るために四天王寺を建立しました。
どうでもいい話ですが、大阪の天王寺の名の由来は四天王寺からきているんですよ。天王寺という寺はありませんからね。
そんなこんなで泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位しました。
崇峻天皇
崇峻天皇は即位しました。ですが、即位できたのは蘇我馬子のおかげなんですよ。(前述の通り)なので結局馬子が実権を握り、崇峻は不満を募らせて…事件は起こります。
ある日、崇峻に猪が献上されます。それを指して「猪の首を切るように、私の嫌いな者を切りたい」と漏らしたんです。さあ、「私の嫌いな者」って誰でしょう?
答え:蘇我馬子
あの流れでいくともう分かりますよね(笑)
続きにいきましょう!崇峻の言葉を伝え聞いた馬子は怒って部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻を暗殺させました。不思議なことですよ。なんでかって?答えて差し上げましょう。後で(笑)。またまた話はそれますが、暗殺された天皇は20代安康と32代崇峻だけです。
暗殺事件の謎
不思議なこと…何がおかしいか分かりますか?それは、崇峻暗殺後も朝廷内に動揺が見られないことです。そのあたりの話は書いていなかったので分からなくて当然です(笑)。馬子がその後も政界で活躍していることが不思議だと思った方、惜しいです。馬子は情報が漏れないように駒を暗殺して口封じをします。(諸説あって、駒が馬子の娘を奪ったからともいわれています。)だから情報は漏れていないんです。で、話を戻しますが、天皇の暗殺という国家の一大事でも同様しないというのはどうもおかしいですよね。だから専門家たちは考えました。皇族が関わっていたのではないか、と。当方も同様の意見でして、皇族や重臣の了解を得て実行したんだと思いますよ。
今回はとても長かったですが、お付き合いいただきありがとうございました。!「次回聖徳太子登場!」なんて何度も言っててようやく端っこを出せましたが、彼に関してはまだまだこれから語っていきます。次回はかの有名な女帝の登場からです。
デザイン編集も頑張っていきます。乞うご期待!
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今回は当方が今まで書いた記事のハイライトとなります。
なので新しく知る情報はないでしょう。
このブログのメインコンテンツである日本史と天皇の関係についての記事のまとめです。日本史の話題を語るためにこのブログ始めたので、一番記事数が多いです。
ではどうぞ。
続いて旅行記関連の話になります。
日本史の話題のクールダウンの目的で、ツーリングや登山の話題を持ち出しています。
ある種の備忘録みたいなものです。ではどうぞ。
その次はスターウォーズの内容です。スターウォーズは世界最高傑作のファンタジーです(個人の意見です)。という訳で一人語りで紹介しています。あの世界に心酔したらもう抜け出せませんよ(笑)。そのあたりの内容もこのシリーズで語ります
ではどうぞ。
仏教の伝来と皇室のかかわり(後編)~蘇我氏についての考察を交えて~
どうも未来の日本史博士です。
前回、前編と題して欽明天皇までの歴史を解説しました。
今回は続きというわけで敏達天皇以降について語ります。
では、早速始めていきましょう。
敏達天皇
ここはさっといきたいと思います。あまり多くの情報はないので…
物部守屋を大連、蘇我馬子を大臣として政局にあたらせたんですが、
(蘇我馬子肖像画)引用:日本の歴史.com
守屋は仏教を排斥したいと考え、馬子は仏教を崇拝するよう促したため、対立が激化してしまいました。
その後、守屋は30代敏達天皇の許可を得て仏像を海に捨ててしまい、祟りが疱瘡として現れてしまい、結局敏達自身が疱瘡にかかって崩御してしまいました。
用明天皇
藤原氏でよく見る自分の娘を天皇の嫁にして、自分が天皇の外祖父になる方式あるじゃないですか。下の図のような…
引用:history-land.com
蘇我氏もその方法使ったんですよ。というわけで続き解説続けていきます。
31代用明天皇は父が欽明で、母が蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)です。さっきの藤原氏の例と同様に蘇我氏は権勢をふるいました。
ちなみに用明の皇后には堅塩媛の妹・小姉君の娘である穴穂部間人皇女を迎え、蘇我氏との血の繋がりがとても強くなりました。
引用:wikipedia
さらに、用明自身は即位2年目で病に倒れてしまい仏教への帰依を願うようになったと言います。仏教を取り入れようとする蘇我氏にとっては幸運に幸運が重なっています。
また、病がより重くなり、仏師の奏上を受け入れて仏像と寺をつくることを許可しています。
次回の話に登場する聖徳太子は用明の皇子で法隆寺の薬師如来像は亡き用明のために作ったとか。
そもそも蘇我氏の出自は?なぜ仏教を信仰したのか?
ここからは皇室よりは蘇我氏をメインにして古代学を話していこうと思います。
そもそも蘇我氏はどうして仏教を信奉したのでしょうか。
その理由は周囲にいた渡来人が関係していました。彼らは主に朝鮮から来た人で、言うまでもなく仏教を信仰をしていました。そこで蘇我氏は仏教をあえて信仰することで渡来人とより強固な関係を結ぼうと考えたのでしょう。(あくまで個人の意見です。)
ちなみに蘇我氏自体がイスラエル人だとか、渡来人だとかいう論もありますが、それは分からないですね。一応系譜上では神功皇后のときに活躍した武内宿禰の子孫と言われています。
www.xhimiko.com
神功皇后の話についてはこちらから。
ただ、少なくとも渡来人と密接な関係にあったのは事実です。あくまで個人の見解ですが神功皇后の朝鮮出兵のときに渡朝した武内宿禰が朝鮮現地で子供を設けその子孫が蘇我氏に繋がっていったのではないか、と推測しています。
今回は敏達、用明天皇について、そして仏教と蘇我氏とのかかわりについて解説しました。次回以降も乞うご期待!
仏教の伝来と皇室のかかわり(前編)
誰もが知ってるであろう仏教の伝来。
そこに蘇我氏と物部氏の争いがあったことは周知の事実ですよね?
じゃあ、その時皇室がどう関わったのか深く掘り下げていきましょう!
安閑天皇と宣化天皇
27代安閑と28代宣化は同母兄弟です。もちろん父は26代継体ですよ。
継体についての話は以下をどうぞ。
で、安閑が即位したときにはすでに65歳で在位期間は短いにもかかわらず、各地に屯倉を設置するなどの功績を残し、天子を誉め称える声が天地に充満したそうです。どうでもいい話ですが、屯倉を設置したっていう天皇多いんですよね。理由がとても気になります。
その後、安閑に実子がいなかったため、宣化が即位しますが、こちらも即位したのは69歳でした。大伴金村、物部麁鹿火、蘇我稲目を大臣(おおおみ)としました。その他、新羅に攻められた任那へ救援の兵を出すなど外交面でも積極的に行動したそうです。それでは本題へ…
仏教が伝来した
この時即位したのは29代欽明天皇です。欽明は継体の実子で、安閑と宣化とは異母弟です。
欽明の治世での政治的背景を先に説明しておきます。
金村と物部尾輿が大連、蘇我稲目を大臣として政務を任せていました。
大連(おおむらじ)とは軍事、裁判を担当する役職で、大臣(おおおみ)とは経済、外交を担当する役職です。
で、金村が任那を百済に割譲したことを咎められて失脚、その後は二大豪族が政務を務めていた矢先、仏教が伝来しました。百済の聖明王から552年に仏像1体と、幡蓋(はたきぬがさ)と経典が献上されたそうなんですが、さあどうなったことなのでしょう?
欽明は臣下を集めて、どうするべきか相談したそうで、稲目は賛成しましたが、尾輿は国神の祟りを恐れて反対、真向から対立してしまいました。結局欽明は稲目に仏像を授け、稲目は寺を建てて、熱心に祀ったんですが、稲目に女神は微笑まず、疫病が流行、尾輿が仏像を信じたためだと訴えて寺を焼き払い、仏像を捨ててしまいます。お互いに反目しあい、皇位継承権をめぐった争いを混ざっていきます。
ここで若き聖徳太子が登場するのですがその件はまた次回。
王朝交替説とは何ぞや?を解説〜継体天皇の治世〜
どうも未来の日本史博士です。
今回は雄略天皇の後の話になります。そして当方が日本書紀の話のなかで最も気になる話の一つの継体天皇の皇位継承の話がメインになります。
では早速雄略天皇の次から始めます。
清寧天皇から仁賢天皇まで
雄略天皇の次は22代・清寧天皇が即位します。清寧は雄略の皇子です。
善政を敷いたそうですが、目立った事績はありません。アルビノで幼少から白髪だったそうです。清寧には子供がなく、親戚筋をたどって播磨で見つけ出した兄弟の弟が23代・顕宗天皇として即位しました。その次には兄の24代・仁賢天皇が即位します。この兄弟は雄略天皇に殺害された市辺押歯皇子の遺児という関係があります。
雄略天皇と市辺押歯皇子の関係はこちらから
gonikyuroku.hatenablog.com
仁賢については聡明で謙虚な人物だったと日本書紀には書かれています。
また五穀豊穣で人口も増え大いに繁栄しました。
また顕宗が即位するまでの間に政務をとっていた飯豊王は古事記では天皇として扱われえており宮内庁でも飯豊天皇と称されています。仁賢の次には皇子の25代・武烈天皇が即位しました。即位する前にも一悶着あったようなので紹介します。仁賢が崩御したのち大臣・平群真鳥が自ら王になろうとして、大伴金村が兵を率いて討伐したそうで、大伴金村は継体天皇一件でも活躍します。
ただ武烈は即位後暴君と化し、一般人に対して残虐な行為を繰り返します。
越の国からやってきた皇子K
かっこつけた見出しにしましたが、頭には残るとおもいます。
で、ようやく本題に至りましたが解説を続けます。
王朝交替の推論の前に記紀書かれている事績について紹介します。
武烈がわずか18歳で亡くなり、次の天皇の候補に挙がったのが15代応神天皇の5世孫の継体天皇となる人物です。
(福井県(当時の越の国)にある継体天皇像)
ここで再登場するのが、大伴金村です。金村が何度も申し入れてようやく継体が即位します。正当性を与えるために仁賢の皇女を妃に迎え入れたました。農業の振興に尽力し、九州で反乱を起こした磐井を物部麁鹿火に鎮圧させたりしました。
本題の王朝交替説
今回の主人公の継体天皇ですが、それと関係する王朝交代説についてここからは語っていきます。
引用:sirdaizine.com
ではまず、継体のときにどうして王朝交代が行われたと言われているのか、について。前述の通り継体は応神の5代後の子供だと言われていますが古事記にも日本書紀にも全く系譜がないんです。しかも応神の母親が神功皇后である以上その存在を疑わざるを得ないので継体の出自も怪しくなってきます。こういった事情をふまえて史学者・水野祐氏が「三王朝交代説」を提唱しました。これは10代崇神から始まる三輪王朝、16代仁徳から始まる河内王朝、そして26代継体が簒奪して建てた王朝。そして現在は継体の血統を受け継いでいる、という 説です。
では続いて王朝交替説に反対する論を説明しましょう。
こちらには有力な物証があります。それは和歌山・隅田八幡神社に伝わる人物画像鏡に刻まれた銘文です。で、その中には「癸未(きび)年」という年紀があって、この期間は継体が即位する数年前の503年といわれています。特にこの銘文中には「男弟王(おほど)」という人名が記載されてあり、この人物が継体が即位する前の名前であり、またその名前にある「王」という表記が周囲の豪族ではなく、皇族の一員であるとわかる、という証拠があります。そこから王朝は交替した訳ではなく、皇統はつながっているといえるでしょう。さらに、記紀より昔の「上宮記」という文章に応神から継体につながる系図が書かれている、というのも大きな証拠ですね。
何にせよ、血縁が遠かったのは事実であって、大和に入るまでに20年かかりました。
これは継体の大和入りに抵抗する勢力がいたからと考えられます。その勢力は葛城氏と言われています。雄略に攻撃を受けながらも勢力を保っていたようで、あやうく本当に簒奪されるところだったかもしれませんね。そこで皇統の正当性を示すために前述のように仁賢の皇女を娶ったといういきさつがあったのです。やはりいつの時代でも血統や政略結婚が重視されるのだな~、なんて思いました。
今回の話で出た記紀や、雄略あたりの話は以下のリンクからどうぞ。
というわけで今回は長くなりましたが継体天皇について解説しました。
雄略天皇とは誰ぞや?を解説
どうも未来の日本史博士です。
今までの「何ぞや」ってネーミングにあやかって付けた題名ですが、強引過ぎたかもしれませんね。ところで、今回紹介するのは雄略天皇についてです。
稲荷山古墳から出土したワカタケル大王の刀剣で有名なので、中学校とかでも習った人も多いと思います。
前回の仁徳天皇の話からの続きも含めて解説していきます。
履中天皇から安康天皇
仁徳天皇の次に即位したのが17代・履中天皇です。皇位を簒奪しようとした弟を殺害して即位しました。宋書倭国伝にある倭の五王の「讃」だと言われています。ちなみに履中天皇陵は日本で3番目に大きいです。
その次に即位したのが18代・反正天皇。倭の五王の「珍」だとされていて、宋から「安東将軍」の称号を与えられていたとされています。
さらにその次に即位したのが19代・允恭天皇。倭の五王の「済」とされています。目立った事績は特になく、皇子の木梨軽皇子と皇女の軽大郎女(かるのおおのいらつめ)が禁忌である同じ母の兄妹が恋に落ちる話があるんですが、そのまま道後(今の愛媛県)に追い詰められて心中しました。
そのまた次に即位した20代・安康天皇が即位するところから雄略天皇に関する話が始まるのです。まずは木梨軽皇子を倒したのちに即位したんですが、今度は安康自身が臣下に騙されて殺害されたそうです。
暴君(?)雄略の登場
引用:wikipedia
で、真っ先に動いたのが安康の弟・大泊瀬若武命(おおはっせわかたけるのみこと)で
安康を殺害した眉輪命を殺害し、今後の対応を協議するために兄が煮え切らない態度をとったためにこちらも殺害、従兄弟も殺害して皇位を奪い取り、21代・雄略天皇として即位しました。
その後は聞いたことがあるかもしれないですが、ある意味典型的な暴君ぶりだったという。その一方で優れた手腕を発揮して養蚕を奨励し経済を発展させたようで、外交関係でも鉄をもとめて、はるばる朝鮮へ遠征軍を送ったそうな。伊勢神宮の外宮を建てたのも雄略です。ちなみに倭の五王の「武」は雄略だと言われています。また女性関係では優雅な恋物語の主人公として描かれています。
雄略が即位するときに殺害した市辺押歯皇子の子供たちにまた一つお話があるんです。
が、それに関してはまた次回以降に解説します。
では、また次回!
仁徳天皇陵とは何ぞや?を解説〜仁徳天皇の治世〜
どうも未来の日本史博士です。
近年話題になっている仁徳天皇陵。宮内庁の協力のもと学術調査も行われ、堺市が世界遺産の登録を目指しています。
では、その仁徳天皇陵と仁徳天皇とはどのような人物だったのかわかりやすく解説します。
仁徳天皇とは?
応神天皇の第4皇子。
仁徳天皇は実在すると言われている最初の天皇です。
高句麗地方の「好太王碑文」にある朝鮮遠征の事績(神功皇后とは別)は仁徳天皇の治世のことと考えられています。ここで、仁徳天皇の仁政をあらわすエピソードを紹介します。
「宮殿から家々を見た仁徳は炊事の煙が上がっていないことに気付く。
民が苦しんでいることに気づいた仁徳は3年間課税を免除したという。
そして、仁徳自らも倹約に努めたそうだ。」
水害を防ぐ日本最古の堤防・茨田堤や、屯倉(朝廷直属の穀物貯蔵庫)を築いた。
調べてみたところ、寝屋川市にあるようで、石碑が建っています。
皇后の磐之媛命とはいろいろスキャンダルがあって、皇后の嫉妬に苛まれたようです。
大山古墳について
仁徳天皇の陵墓であることは疑問視されています。
理由は簡単、仁徳天皇の崩御年と年代測定法で調べた年代が200年ほどずれるからです。宮内庁が言うには、新たな証拠が発見されない限り仁徳天皇の陵墓という認識を変えないそうです。
ところで仁徳以降は海に近い河内に古墳が築かれるようになったんです。さあ、なんででしょう?
それは、外国の使節に日本の威光を見せつけるためなんです。
しばらく河内に古墳が作られ続けたので25代目・武烈天皇までを河内王朝と呼ぶこともあります。
とりあえず、(一応)本題になっている仁徳天皇陵(大山古墳)のスペックを紹介します。
(引用:共に堺市公式ホームページ)
全長486m 高さ約35m
濠を含めた面積47万㎡
試算では毎日2000人が働いても15年以上かかると言われています。
なおその規模から秦の始皇帝の墓、エジプトのクフ王のピラミッドと並んで世界三大陵墓と称されています。なお2018年の宮内庁と堺市によって初調査が行われました。その結果、土作りだと考えられていた従来の予想と違って表面は石で覆われていたそうです。だから、上のイメージとは少し違うようですね。もっと豪勢な見た目をしていたんでしょう。
立ち入りができないという制約はありますが
ぜひ世界遺産登録を目指してほしいものです。
なお、別記事に詳しく解説していますのでどうぞご覧ください。
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朝鮮出兵とは何ぞや?を解説〜崇神天皇から神功皇后まで〜
どうも未来の日本史博士です。
朝鮮出兵…そう聞いて何を思い浮かべますか?やっぱり豊臣秀吉のアレ?だと思いますが、私が今回紹介したいのは、神功皇后の治世下のお話です。というわけで始めます!
って、急に言っても時代背景が分からないと思うので、
前回の欠史八代の続きからいきましょう!
なお、欠史八代については以下の記事をどうぞ。
gonikyuroku.hatenablog.comgonikyuroku.hatenablog.com
10代目 崇神天皇
引用:wikipedia
各地に将軍を派遣して、北陸、関東、中国地方を平定したようです。
さらには、疫病の流行をおさめるために、大物主神という神に神意を尋ねて、
ちなみにこの出来事は天皇が神に及ばないことを示しているといいます。
11代目 垂仁天皇
ここは、軽くいかせてもらいます。
主な業績は皇女・倭姫命に伊勢の五十鈴川のほとりに天照大神の祠を建てさせたこと。
これが後の伊勢神宮ですね。そしていまでも有名な埴輪!
それを作らせて殉死を禁止させました。こんなところから始まっていたんですね。
実は彼の皇后といろいろあったようですが今回は省略します。
ちなみに垂仁天皇の時代に紀元をまたいでます。
12代景行天皇は皇子の日本武尊で有名で、成務天皇に関しては、ほとんど事績がないようです。日本武尊と成務天皇は異母兄弟です。
神功皇后
引用:wikipedia
14代仲哀天皇、15代応神天皇はまとめて解説します。仲哀天皇は日本武尊の皇子で皇后が神功皇后です。住吉三神が神功皇后に新羅(朝鮮)をおさめるよう神託を下します。その時、仲哀天皇は従わなかったため、神の怒りに触れて命を落としたそうです。
そこで、神功皇后自ら朝鮮へ遠征します。ここでようやく本題に至りました。
結果、新羅を平定し、同時に身ごもっていた皇子を帰国後出産、応神天皇となります。
応神天皇の治世でも語ることは多くなく、多くの渡来人が来日して、王仁(わに)が論語を伝えました。
今回語るのは以上です。
少々長かった気もしますがこんな感じで続けていきます。
続・欠史八代とは何ぞや?を解説〜本当に存在したのか〜
どうも未来の日本史博士です。
前回紹介した欠史八代ですが、実際のところいたのでしょうか?
まだ前回の記事を見てない方はこちらをどうぞ。
僕の考え
〜ここからは個人の意見です〜
まあ、いないでしょう。だっておかしくないですか?神武天皇の即位が紀元前660年でそこから9代の天皇…そんな古代に100歳超えても存命なのはとても納得できません。しかも、日本書紀や古事記に記載されている情報が少なすぎる。ただ、欠史八代ではなくともその時代にクニを治めたであろう人物がいるはずで、その人物たちの列伝なのではと思っています。
創作説
大多数が占めると思いますけどね〜
とりあえず、紹介します。まず記載されている量が少なすぎる。つまり、系譜的記事はあっても、実績に関する記事がない。年齢が高すぎる。また、陵墓の観点から見ても、葛城地方に揃っているので、葛城氏という豪族が創作に関わっているのではないかと考えられる。全て父子継承というのがその後の皇室系図が複雑なのと合わないんです。
例を見てください。
<p>
</p>
すぐ後にはこれほど複雑なんですよ。
じゃあ欠史八代なんて創作で決まりだ!と思ったあなた、
100%創作と判断するのはまだ早いんです。
とりあえず史実説を見ていただきましょう。
史実説
じゃあ史実であるという根拠は何なのか?
まずは創作説の否定から入ることにします。
実績に関する記事が少ないという観点からみると、実は反正天皇、欽明天皇、崇峻天皇、推古天皇なども記述があまりないんです。
でも反正天皇は「宋書」倭国伝の倭の五王の「珍」といわれていて、欽明天皇は仏教伝来時の天皇、崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺され、推古天皇は摂政におなじみの聖徳太子がいます。つまり、記事がないからといって創作と断定するのは説得力が欠けると思います。また、たとえ神武天皇の記事が長いとはいえ、奈良盆地の一角の勢力だった時代なので実績が伝わっていないのもおかしくはないはず。父子継承に関しても、2つの説があります。
- 実際に父子継承でつながる
- 実際は父子継承でないつながりがある
大事なのは後者で、日本書紀の文中でも、
「一(ある)に云(い)わく」などという書き方がされている部分もあります。実は異伝によると、4代懿徳天皇、5代孝昭天皇、6代孝安天皇の結婚相手が同一人物であるといわれています。(それも割と怪しいですが…)
この記述からは父子継承であるとは考えにくいはずです。なぜなら、記述からみてもそうですが、創作なら異伝を書く必要がないからです。(もっとも偽造のためというのも考えられますが)でも、そういう言い伝えもあったから書いたって考えるのが普通だと思います。
結果的には、どちらが正しいか分かりませんが、否定派が多数派だったので創作説を覆せそうな意見を多めに書きました。
なんとなく堅い内容でしたがこういう内容のことも書いていきたいと思います。
そして今後の研究に期待しましょう!
欠史八代とは何ぞや?を解説
どうも未来の日本史博士です。
今回は皆さんあまり知らないであろう欠史八代について語っていこうと思います。
そもそも欠史八代って?
以前紹介した初代・神武天皇の次の綏靖天皇から9代・開化天皇までを指します。
具体的には、
この8代を指します。
では、軽くですが、一人づつ解説していきます。
綏靖天皇
父:神武天皇
母:ヒメタタライスズヒメノミコト
享年 84歳
葛城の高丘の宮で政務をとる。
神武天皇の第3子で、異母弟の多芸志美美命(たきしみみのみこと)を殺害し、即位した。
安寧天皇
父:綏靖天皇
母:イスズヨリヒメノミコト
享年 57歳
母神は事代主神(出雲神話の大国主大神の子)の娘である。片塩の浮穴宮で政務をとる。
懿徳天皇
父:安寧天皇
母:ヌナゾコノナカツヒメノミコト
享年 77歳
即位した後、軽曲峡宮に移した。
孝昭天皇
父:懿徳天皇
母:アメトヨツヒメノミコト
享年 113歳
即位した後、葛城のわきの上に都を移し、池心宮を建てる。
孝安天皇
父:孝昭天皇
母:ヨタラシヒメ
享年 137歳
兄神に小野氏(小野妹子、小野小町、小野道風など)の祖先となった天足彦国押人命がいる。葛城の室の秋津島宮を建てた。
孝霊天皇
父:孝安天皇
母:オシヒメ
享年 128歳
四道将軍の吉備津彦命や、卑弥呼と同一視する説のあるヤマトトトヒモモソヒメノミコトの父。黒田の廬戸宮で政務をとった。
孝元天皇
父:孝霊天皇
母:ホソヒメノミコト
享年116歳
神功皇后などに仕えた武内宿禰の曽祖父と言われている。軽の堺原宮で政務をとった。
開化天皇
父:孝元天皇
母:ウツシコメノミコト
享年111歳
父の后のイカガシコメノミコトを皇后にして崇神天皇(10代目)をもうけた。春日の伊邪河宮で政務をとった。
欠史八代の天皇陵
全て葛城地方(奈良盆地南西部)に集中しています。
綏靖天皇陵
こんな感じの陵墓です。
陵墓について言及した理由はまた次回以降へ〜
もっと詳しく紹介したかったんですが、今回はとりあえずこんな感じです。