かの有名な聖徳太子の実像に迫る!
どうも未来の日本史博士です。
今回こそ聖徳太子についてじっくり語っていきたいと思います。まずは基本的なことからいくつもりです。
ではいきましょう!
厩戸皇子の素性
え?厩戸皇子?誰?って思った方へ、前回の記事を見てください。厩戸皇子というのは聖徳太子の本名です。とりあえず今回は聖徳太子特集なのでそういったことも含めて語っていきます。先ほども言った通り厩戸皇子というのが本名で聖徳太子というのは諡(おくりな)です。また別名として豊聡耳皇子(とよとみみのみこと)というのもあります。古事記での呼び方はこっちですね。
では基本データを
別名 聖徳太子
生没年 574~622(49歳病没)
父親 用明天皇
母親 穴穂部間人皇女
ざっとこんなもんです。
じゃあ具体的に厩戸皇子の事績を見ていきましょう。有名なのは冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣ですね。これらは後程一つずつ解説していきます。そもそもどうして太子が摂政になったのかからいきます。
聖徳太子が摂政になった理由
前回の記事でも紹介した内容ですが改めて書いておきます。上述の通り太子は用明の皇子なので皇族の一員です。つまり天皇になる資格(皇位継承権)があったんです。そしてその事績で有名なようにその実力は折り紙つきです。じゃあ太子が即位すれば良かったのでは…と思うかもしれませんが、その時代は年齢条件が優先される時代だったため結局、推古が即位されました。ですが推古は蘇我氏の権力を削ぎたいと思いつつ、推古自身も蘇我氏が外戚だったため、争いは避けたいと思っていました。そこで推古は太子を摂政とすることで勢力バランスを保とうとしました。最終的に求めることは天皇中心の政治を理想でした。
さらにさらに、推古と太子は仏教を信仰することでも一致していました。仏教の教えは心を静める効果があり、(個人的な意見はさておき、いろんな考えがあるとは思いますが…)中央集権体制を敷くにはもってこいだったんですね。二人の意見が一致したのですから、太子は摂政になるべくしてなったのですね。
聖徳太子の事績
と、まあ、太子が摂政になった経緯を解説しましたが、事績について語っていきます。
なお天皇についてをメインに語るブログなので聖徳太子の事績は控えめにいきます。
〈冠位十二階〉
これは中学校でもある程度詳しく習いましたよね。まあ、簡単に解説します。この制度は家柄ではなく個人の能力を尊重して登用するものです。ご存知の通り色によって位が決まるのでその件も紹介します。ちなみに蘇我氏は十二階より上の地位にいたため、紫冠をつけていました。皇族も特別な色の冠を持っていて、十ニ階より下の地位の人物も各々十二階とは別の色の冠を持っていたようでどこまで効果があったのか…まあ蘇我氏の冠の話とかは俗説だという研究もありますけどね。とりあえず一般的な十二階です。
〈憲法十七条〉
これは国の中心は天皇であることを公に示したものです。内容は有名なので一応書いておきます。
〈遣隋使の派遣〉
「日出(いず)る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。」という親書を隋の皇帝・煬帝に送りつけたことで有名です。ちなみにこの親書を携えて隋に行ったのは小野妹子ですが、実際は二回目の遣隋使なんですよ。一回目はあまりうまくいかなかったようです。余談ですが小野妹子率いる第二弾遣隋使の返答の親書を持ってきた使者は裴世清という人物です。
聖徳太子の改革の成果
こうして従来の氏姓制度を脱して天皇を頂点とした朝廷の新しい序列を整備して優秀な人材を集めて支配体制を固めることに成功しました。そういう観点では「聖徳太子」という呼称は後世の作り話であると否定されがちですが、朝廷の体制を固めることに貢献したという点ではそう呼ばれるのにふさわしい人物だったと考えられますね。だからこそ紙幣の人物になり得た訳です。
以上、聖徳太子特集でした~。次回は舒明天皇以後の話です。乞うご期待!
読者登録もお願いします。
日本最初の女帝~推古天皇~
どうも未来の日本史博士です。
今回は前回の予告通り推古天皇について解説していきます。もちろんおなじみの聖徳太子も登場しますよ。
ではでは早速いきましょう!
女帝登場
(推古天皇画像)
前回崇峻が暗殺されたところまで解説しました。そこでは推古の関与についても考察しましたが、今回は推古が即位するところからです。崇峻の死後すぐに敏達の皇后の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が即位、推古天皇となります。もちろん知っていますよね。女帝の補佐をするために摂政がおかれ、厩戸皇子が就任します。これも有名ですよね。一度言っておきますが聖徳太子という名が一般的ですが、本名は厩戸皇子なのでここでは後者をとって書いていきます。ただ、今回は推古についての回なので厩戸皇子(聖徳太子)についてはいつか詳しく書いていきます。
厩戸皇子も皇族だったため皇位継承権があって、また用明の皇子である厩戸皇子のほうが用明の妹である推古よりも血統的にも近いため現代では厩戸皇子の方が有力なんですが、当時は世代や年齢が重要視されたんです。という訳で推古が即位、厩戸皇子が摂政になりました。一応厩戸皇子が成長するまでの中継ぎだったんですが、推古は崩御する前に厩戸皇子が亡くなってしまったため皇子が即位することはありませんでした。
では、推古の治世を掘り下げて書いていきます。
まずは三頭政治の話から。(スターウォーズの古代史にもシス三頭政治ってのがあります。いつか語ります。余計な話題を持ち出してすいません。)
推古治世下の三頭政治のキーパーソン三名は推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子です。でも実態は推古は政治に関わっていないので、皇子と馬子が協力しあって政務を推し進めたのと考えるのが一般的ですね。推古も摂政である皇子さんに任せていましたが、別に推古自身は能力がなかったわけではなく、容姿端麗、頭脳明晰だったと言われています。
冠位十二階や憲法十七条といった政治の内容は厩戸皇子単体の回で。
なお蘇我氏の全盛期ではあったものの、馬子が推古に直轄領の支配権を願い出た際はきっぱりと断っているので決して蘇我氏の言いなりになっていなかったわけではんまいですよ。そんなこんなで三頭政治の均衡を保っていました。
推古自身の主な事績は「天皇記」「国記」の編纂や、四天王寺、法隆寺の建立に関わったことや、遣隋使の派遣などですね。
今回はここまで。次回、舒明天皇からです。乞うご期待!
もしもこの記事を気に入って頂けたら、読者登録をお願いします。
知る人ぞ知る暗殺事件
どうも未来の日本史博士です。
今回は誰もがその名を知るであろう聖徳太子について解説します。
では、前回の続き、すなわち崇峻天皇から解説していこうと思います。
丁未の乱
そもそも崇峻天皇が即位するまでにいろいろあったんで、そこから書いていきます。
で、ことの発端は用明天皇が崩御した後、物部守屋が穴穂部皇子の擁立を図ったことから始まります。守屋は蘇我氏と血縁関係のない人物を擁立しようとしていたんですが、亡くなってしまったので仕方なく…という経緯で穴穂部皇子の擁立に至ります。
一方の蘇我氏はというと、後の推古天皇となる額田部皇女を擁立して全面対決となります。先手を打ったのは蘇我氏、(ある意味物部氏が軍を動かそうとして蘇我氏が行動を起こしたんですが)馬子が穴穂部皇子を殺害します。すでに両家は仏教の信仰をめぐって対立していたので戦争状態に突入していきます。ちなみに聖徳太子(本名・厩戸皇子)は蘇我氏側についていました。さあ、続きにいきましょう!
蘇我氏が泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)や厩戸皇子を味方に取り込んで、物部氏の拠点・渋川の館を襲います。ちなみに渋川は今の大阪府八尾市にあります。前回の記事を見ていただければ分かるはずなんですが、物部氏って軍事を司る大連という役職についていたんですから戦に関してはエキスパートなんですよ。なので言うまでもなく蘇我氏は苦戦し、たくさんの兵を失ってしまいます。餅は餅屋です。ここで活躍するのがこの後主人公になる厩戸皇子です。彼は霊木を用いて四天王像(仏教の守護神)を作り、戦勝を祈願するとあら不思議。馬子の部下の一人が大木によじ登っていた守屋を見つけて射殺、蘇我軍の勝利に終わりました。これを丁未(ていび)の乱といいます。
(丁未の乱を題材にした絵ですが、こんな立派な石垣や櫓はなかったでしょう)
(ここでは厩戸皇子(つまりは聖徳太子)が守屋を討ち取ったことになっていますが実際は別の人物です。)
その後厩戸皇子は祈願時の約束通り、四天王像を祀るために四天王寺を建立しました。
どうでもいい話ですが、大阪の天王寺の名の由来は四天王寺からきているんですよ。天王寺という寺はありませんからね。
そんなこんなで泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位しました。
崇峻天皇
崇峻天皇は即位しました。ですが、即位できたのは蘇我馬子のおかげなんですよ。(前述の通り)なので結局馬子が実権を握り、崇峻は不満を募らせて…事件は起こります。
ある日、崇峻に猪が献上されます。それを指して「猪の首を切るように、私の嫌いな者を切りたい」と漏らしたんです。さあ、「私の嫌いな者」って誰でしょう?
答え:蘇我馬子
あの流れでいくともう分かりますよね(笑)
続きにいきましょう!崇峻の言葉を伝え聞いた馬子は怒って部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻を暗殺させました。不思議なことですよ。なんでかって?答えて差し上げましょう。後で(笑)。またまた話はそれますが、暗殺された天皇は20代安康と32代崇峻だけです。
暗殺事件の謎
不思議なこと…何がおかしいか分かりますか?それは、崇峻暗殺後も朝廷内に動揺が見られないことです。そのあたりの話は書いていなかったので分からなくて当然です(笑)。馬子がその後も政界で活躍していることが不思議だと思った方、惜しいです。馬子は情報が漏れないように駒を暗殺して口封じをします。(諸説あって、駒が馬子の娘を奪ったからともいわれています。)だから情報は漏れていないんです。で、話を戻しますが、天皇の暗殺という国家の一大事でも同様しないというのはどうもおかしいですよね。だから専門家たちは考えました。皇族が関わっていたのではないか、と。当方も同様の意見でして、皇族や重臣の了解を得て実行したんだと思いますよ。
今回はとても長かったですが、お付き合いいただきありがとうございました。!「次回聖徳太子登場!」なんて何度も言っててようやく端っこを出せましたが、彼に関してはまだまだこれから語っていきます。次回はかの有名な女帝の登場からです。
デザイン編集も頑張っていきます。乞うご期待!
もしも気に入って頂けたら、読者登録お願いします。
サイトマップ
今回は当方が今まで書いた記事のハイライトとなります。
なので新しく知る情報はないでしょう。
このブログのメインコンテンツである日本史と天皇の関係についての記事のまとめです。日本史の話題を語るためにこのブログ始めたので、一番記事数が多いです。
ではどうぞ。
続いて旅行記関連の話になります。
日本史の話題のクールダウンの目的で、ツーリングや登山の話題を持ち出しています。
ある種の備忘録みたいなものです。ではどうぞ。
その次はスターウォーズの内容です。スターウォーズは世界最高傑作のファンタジーです(個人の意見です)。という訳で一人語りで紹介しています。あの世界に心酔したらもう抜け出せませんよ(笑)。そのあたりの内容もこのシリーズで語ります
ではどうぞ。
仏教の伝来と皇室のかかわり(後編)~蘇我氏についての考察を交えて~
どうも未来の日本史博士です。
前回、前編と題して欽明天皇までの歴史を解説しました。
今回は続きというわけで敏達天皇以降について語ります。
では、早速始めていきましょう。
敏達天皇
ここはさっといきたいと思います。あまり多くの情報はないので…
物部守屋を大連、蘇我馬子を大臣として政局にあたらせたんですが、
(蘇我馬子肖像画)引用:日本の歴史.com
守屋は仏教を排斥したいと考え、馬子は仏教を崇拝するよう促したため、対立が激化してしまいました。
その後、守屋は30代敏達天皇の許可を得て仏像を海に捨ててしまい、祟りが疱瘡として現れてしまい、結局敏達自身が疱瘡にかかって崩御してしまいました。
用明天皇
藤原氏でよく見る自分の娘を天皇の嫁にして、自分が天皇の外祖父になる方式あるじゃないですか。下の図のような…
引用:history-land.com
蘇我氏もその方法使ったんですよ。というわけで続き解説続けていきます。
31代用明天皇は父が欽明で、母が蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)です。さっきの藤原氏の例と同様に蘇我氏は権勢をふるいました。
ちなみに用明の皇后には堅塩媛の妹・小姉君の娘である穴穂部間人皇女を迎え、蘇我氏との血の繋がりがとても強くなりました。
引用:wikipedia
さらに、用明自身は即位2年目で病に倒れてしまい仏教への帰依を願うようになったと言います。仏教を取り入れようとする蘇我氏にとっては幸運に幸運が重なっています。
また、病がより重くなり、仏師の奏上を受け入れて仏像と寺をつくることを許可しています。
次回の話に登場する聖徳太子は用明の皇子で法隆寺の薬師如来像は亡き用明のために作ったとか。
そもそも蘇我氏の出自は?なぜ仏教を信仰したのか?
ここからは皇室よりは蘇我氏をメインにして古代学を話していこうと思います。
そもそも蘇我氏はどうして仏教を信奉したのでしょうか。
その理由は周囲にいた渡来人が関係していました。彼らは主に朝鮮から来た人で、言うまでもなく仏教を信仰をしていました。そこで蘇我氏は仏教をあえて信仰することで渡来人とより強固な関係を結ぼうと考えたのでしょう。(あくまで個人の意見です。)
ちなみに蘇我氏自体がイスラエル人だとか、渡来人だとかいう論もありますが、それは分からないですね。一応系譜上では神功皇后のときに活躍した武内宿禰の子孫と言われています。
www.xhimiko.com
神功皇后の話についてはこちらから。
ただ、少なくとも渡来人と密接な関係にあったのは事実です。あくまで個人の見解ですが神功皇后の朝鮮出兵のときに渡朝した武内宿禰が朝鮮現地で子供を設けその子孫が蘇我氏に繋がっていったのではないか、と推測しています。
今回は敏達、用明天皇について、そして仏教と蘇我氏とのかかわりについて解説しました。次回以降も乞うご期待!
仏教の伝来と皇室のかかわり(前編)
誰もが知ってるであろう仏教の伝来。
そこに蘇我氏と物部氏の争いがあったことは周知の事実ですよね?
じゃあ、その時皇室がどう関わったのか深く掘り下げていきましょう!
安閑天皇と宣化天皇
27代安閑と28代宣化は同母兄弟です。もちろん父は26代継体ですよ。
継体についての話は以下をどうぞ。
で、安閑が即位したときにはすでに65歳で在位期間は短いにもかかわらず、各地に屯倉を設置するなどの功績を残し、天子を誉め称える声が天地に充満したそうです。どうでもいい話ですが、屯倉を設置したっていう天皇多いんですよね。理由がとても気になります。
その後、安閑に実子がいなかったため、宣化が即位しますが、こちらも即位したのは69歳でした。大伴金村、物部麁鹿火、蘇我稲目を大臣(おおおみ)としました。その他、新羅に攻められた任那へ救援の兵を出すなど外交面でも積極的に行動したそうです。それでは本題へ…
仏教が伝来した
この時即位したのは29代欽明天皇です。欽明は継体の実子で、安閑と宣化とは異母弟です。
欽明の治世での政治的背景を先に説明しておきます。
金村と物部尾輿が大連、蘇我稲目を大臣として政務を任せていました。
大連(おおむらじ)とは軍事、裁判を担当する役職で、大臣(おおおみ)とは経済、外交を担当する役職です。
で、金村が任那を百済に割譲したことを咎められて失脚、その後は二大豪族が政務を務めていた矢先、仏教が伝来しました。百済の聖明王から552年に仏像1体と、幡蓋(はたきぬがさ)と経典が献上されたそうなんですが、さあどうなったことなのでしょう?
欽明は臣下を集めて、どうするべきか相談したそうで、稲目は賛成しましたが、尾輿は国神の祟りを恐れて反対、真向から対立してしまいました。結局欽明は稲目に仏像を授け、稲目は寺を建てて、熱心に祀ったんですが、稲目に女神は微笑まず、疫病が流行、尾輿が仏像を信じたためだと訴えて寺を焼き払い、仏像を捨ててしまいます。お互いに反目しあい、皇位継承権をめぐった争いを混ざっていきます。
ここで若き聖徳太子が登場するのですがその件はまた次回。
王朝交替説とは何ぞや?を解説〜継体天皇の治世〜
どうも未来の日本史博士です。
今回は雄略天皇の後の話になります。そして当方が日本書紀の話のなかで最も気になる話の一つの継体天皇の皇位継承の話がメインになります。
では早速雄略天皇の次から始めます。
清寧天皇から仁賢天皇まで
雄略天皇の次は22代・清寧天皇が即位します。清寧は雄略の皇子です。
善政を敷いたそうですが、目立った事績はありません。アルビノで幼少から白髪だったそうです。清寧には子供がなく、親戚筋をたどって播磨で見つけ出した兄弟の弟が23代・顕宗天皇として即位しました。その次には兄の24代・仁賢天皇が即位します。この兄弟は雄略天皇に殺害された市辺押歯皇子の遺児という関係があります。
雄略天皇と市辺押歯皇子の関係はこちらから
gonikyuroku.hatenablog.com
仁賢については聡明で謙虚な人物だったと日本書紀には書かれています。
また五穀豊穣で人口も増え大いに繁栄しました。
また顕宗が即位するまでの間に政務をとっていた飯豊王は古事記では天皇として扱われえており宮内庁でも飯豊天皇と称されています。仁賢の次には皇子の25代・武烈天皇が即位しました。即位する前にも一悶着あったようなので紹介します。仁賢が崩御したのち大臣・平群真鳥が自ら王になろうとして、大伴金村が兵を率いて討伐したそうで、大伴金村は継体天皇一件でも活躍します。
ただ武烈は即位後暴君と化し、一般人に対して残虐な行為を繰り返します。
越の国からやってきた皇子K
かっこつけた見出しにしましたが、頭には残るとおもいます。
で、ようやく本題に至りましたが解説を続けます。
王朝交替の推論の前に記紀書かれている事績について紹介します。
武烈がわずか18歳で亡くなり、次の天皇の候補に挙がったのが15代応神天皇の5世孫の継体天皇となる人物です。
(福井県(当時の越の国)にある継体天皇像)
ここで再登場するのが、大伴金村です。金村が何度も申し入れてようやく継体が即位します。正当性を与えるために仁賢の皇女を妃に迎え入れたました。農業の振興に尽力し、九州で反乱を起こした磐井を物部麁鹿火に鎮圧させたりしました。
本題の王朝交替説
今回の主人公の継体天皇ですが、それと関係する王朝交代説についてここからは語っていきます。
引用:sirdaizine.com
ではまず、継体のときにどうして王朝交代が行われたと言われているのか、について。前述の通り継体は応神の5代後の子供だと言われていますが古事記にも日本書紀にも全く系譜がないんです。しかも応神の母親が神功皇后である以上その存在を疑わざるを得ないので継体の出自も怪しくなってきます。こういった事情をふまえて史学者・水野祐氏が「三王朝交代説」を提唱しました。これは10代崇神から始まる三輪王朝、16代仁徳から始まる河内王朝、そして26代継体が簒奪して建てた王朝。そして現在は継体の血統を受け継いでいる、という 説です。
では続いて王朝交替説に反対する論を説明しましょう。
こちらには有力な物証があります。それは和歌山・隅田八幡神社に伝わる人物画像鏡に刻まれた銘文です。で、その中には「癸未(きび)年」という年紀があって、この期間は継体が即位する数年前の503年といわれています。特にこの銘文中には「男弟王(おほど)」という人名が記載されてあり、この人物が継体が即位する前の名前であり、またその名前にある「王」という表記が周囲の豪族ではなく、皇族の一員であるとわかる、という証拠があります。そこから王朝は交替した訳ではなく、皇統はつながっているといえるでしょう。さらに、記紀より昔の「上宮記」という文章に応神から継体につながる系図が書かれている、というのも大きな証拠ですね。
何にせよ、血縁が遠かったのは事実であって、大和に入るまでに20年かかりました。
これは継体の大和入りに抵抗する勢力がいたからと考えられます。その勢力は葛城氏と言われています。雄略に攻撃を受けながらも勢力を保っていたようで、あやうく本当に簒奪されるところだったかもしれませんね。そこで皇統の正当性を示すために前述のように仁賢の皇女を娶ったといういきさつがあったのです。やはりいつの時代でも血統や政略結婚が重視されるのだな~、なんて思いました。
今回の話で出た記紀や、雄略あたりの話は以下のリンクからどうぞ。
というわけで今回は長くなりましたが継体天皇について解説しました。
雄略天皇とは誰ぞや?を解説
どうも未来の日本史博士です。
今までの「何ぞや」ってネーミングにあやかって付けた題名ですが、強引過ぎたかもしれませんね。ところで、今回紹介するのは雄略天皇についてです。
稲荷山古墳から出土したワカタケル大王の刀剣で有名なので、中学校とかでも習った人も多いと思います。
前回の仁徳天皇の話からの続きも含めて解説していきます。
履中天皇から安康天皇
仁徳天皇の次に即位したのが17代・履中天皇です。皇位を簒奪しようとした弟を殺害して即位しました。宋書倭国伝にある倭の五王の「讃」だと言われています。ちなみに履中天皇陵は日本で3番目に大きいです。
その次に即位したのが18代・反正天皇。倭の五王の「珍」だとされていて、宋から「安東将軍」の称号を与えられていたとされています。
さらにその次に即位したのが19代・允恭天皇。倭の五王の「済」とされています。目立った事績は特になく、皇子の木梨軽皇子と皇女の軽大郎女(かるのおおのいらつめ)が禁忌である同じ母の兄妹が恋に落ちる話があるんですが、そのまま道後(今の愛媛県)に追い詰められて心中しました。
そのまた次に即位した20代・安康天皇が即位するところから雄略天皇に関する話が始まるのです。まずは木梨軽皇子を倒したのちに即位したんですが、今度は安康自身が臣下に騙されて殺害されたそうです。
暴君(?)雄略の登場
引用:wikipedia
で、真っ先に動いたのが安康の弟・大泊瀬若武命(おおはっせわかたけるのみこと)で
安康を殺害した眉輪命を殺害し、今後の対応を協議するために兄が煮え切らない態度をとったためにこちらも殺害、従兄弟も殺害して皇位を奪い取り、21代・雄略天皇として即位しました。
その後は聞いたことがあるかもしれないですが、ある意味典型的な暴君ぶりだったという。その一方で優れた手腕を発揮して養蚕を奨励し経済を発展させたようで、外交関係でも鉄をもとめて、はるばる朝鮮へ遠征軍を送ったそうな。伊勢神宮の外宮を建てたのも雄略です。ちなみに倭の五王の「武」は雄略だと言われています。また女性関係では優雅な恋物語の主人公として描かれています。
雄略が即位するときに殺害した市辺押歯皇子の子供たちにまた一つお話があるんです。
が、それに関してはまた次回以降に解説します。
では、また次回!
仁徳天皇陵とは何ぞや?を解説〜仁徳天皇の治世〜
どうも未来の日本史博士です。
近年話題になっている仁徳天皇陵。宮内庁の協力のもと学術調査も行われ、堺市が世界遺産の登録を目指しています。
では、その仁徳天皇陵と仁徳天皇とはどのような人物だったのかわかりやすく解説します。
仁徳天皇とは?
応神天皇の第4皇子。
仁徳天皇は実在すると言われている最初の天皇です。
高句麗地方の「好太王碑文」にある朝鮮遠征の事績(神功皇后とは別)は仁徳天皇の治世のことと考えられています。ここで、仁徳天皇の仁政をあらわすエピソードを紹介します。
「宮殿から家々を見た仁徳は炊事の煙が上がっていないことに気付く。
民が苦しんでいることに気づいた仁徳は3年間課税を免除したという。
そして、仁徳自らも倹約に努めたそうだ。」
水害を防ぐ日本最古の堤防・茨田堤や、屯倉(朝廷直属の穀物貯蔵庫)を築いた。
調べてみたところ、寝屋川市にあるようで、石碑が建っています。
皇后の磐之媛命とはいろいろスキャンダルがあって、皇后の嫉妬に苛まれたようです。
大山古墳について
仁徳天皇の陵墓であることは疑問視されています。
理由は簡単、仁徳天皇の崩御年と年代測定法で調べた年代が200年ほどずれるからです。宮内庁が言うには、新たな証拠が発見されない限り仁徳天皇の陵墓という認識を変えないそうです。
ところで仁徳以降は海に近い河内に古墳が築かれるようになったんです。さあ、なんででしょう?
それは、外国の使節に日本の威光を見せつけるためなんです。
しばらく河内に古墳が作られ続けたので25代目・武烈天皇までを河内王朝と呼ぶこともあります。
とりあえず、(一応)本題になっている仁徳天皇陵(大山古墳)のスペックを紹介します。
(引用:共に堺市公式ホームページ)
全長486m 高さ約35m
濠を含めた面積47万㎡
試算では毎日2000人が働いても15年以上かかると言われています。
なおその規模から秦の始皇帝の墓、エジプトのクフ王のピラミッドと並んで世界三大陵墓と称されています。なお2018年の宮内庁と堺市によって初調査が行われました。その結果、土作りだと考えられていた従来の予想と違って表面は石で覆われていたそうです。だから、上のイメージとは少し違うようですね。もっと豪勢な見た目をしていたんでしょう。
立ち入りができないという制約はありますが
ぜひ世界遺産登録を目指してほしいものです。
なお、別記事に詳しく解説していますのでどうぞご覧ください。
Twitterのフォローをぜひともよろしくお願いいたします。
朝鮮出兵とは何ぞや?を解説〜崇神天皇から神功皇后まで〜
どうも未来の日本史博士です。
朝鮮出兵…そう聞いて何を思い浮かべますか?やっぱり豊臣秀吉のアレ?だと思いますが、私が今回紹介したいのは、神功皇后の治世下のお話です。というわけで始めます!
って、急に言っても時代背景が分からないと思うので、
前回の欠史八代の続きからいきましょう!
なお、欠史八代については以下の記事をどうぞ。
gonikyuroku.hatenablog.comgonikyuroku.hatenablog.com
10代目 崇神天皇
引用:wikipedia
各地に将軍を派遣して、北陸、関東、中国地方を平定したようです。
さらには、疫病の流行をおさめるために、大物主神という神に神意を尋ねて、
ちなみにこの出来事は天皇が神に及ばないことを示しているといいます。
11代目 垂仁天皇
ここは、軽くいかせてもらいます。
主な業績は皇女・倭姫命に伊勢の五十鈴川のほとりに天照大神の祠を建てさせたこと。
これが後の伊勢神宮ですね。そしていまでも有名な埴輪!
それを作らせて殉死を禁止させました。こんなところから始まっていたんですね。
実は彼の皇后といろいろあったようですが今回は省略します。
ちなみに垂仁天皇の時代に紀元をまたいでます。
12代景行天皇は皇子の日本武尊で有名で、成務天皇に関しては、ほとんど事績がないようです。日本武尊と成務天皇は異母兄弟です。
神功皇后
引用:wikipedia
14代仲哀天皇、15代応神天皇はまとめて解説します。仲哀天皇は日本武尊の皇子で皇后が神功皇后です。住吉三神が神功皇后に新羅(朝鮮)をおさめるよう神託を下します。その時、仲哀天皇は従わなかったため、神の怒りに触れて命を落としたそうです。
そこで、神功皇后自ら朝鮮へ遠征します。ここでようやく本題に至りました。
結果、新羅を平定し、同時に身ごもっていた皇子を帰国後出産、応神天皇となります。
応神天皇の治世でも語ることは多くなく、多くの渡来人が来日して、王仁(わに)が論語を伝えました。
今回語るのは以上です。
少々長かった気もしますがこんな感じで続けていきます。