未来の日本史博士の時典

大メンテナンス中です。また、現在、新たなブログの改良を始めております。

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今こそ知りたい過去の元号を解説!

どうも未来の日本史博士です。

4月1日の菅官房長官の会見で新元号は「令和」に決まったわけですが、f:id:gonikyuroku:20190402201856j:image
さて今回の話題は新元号にちなんで過去の有名な元号について掘り下げていこうと思います。ではどうぞ。

大化(たいか)

日本最初の元号ですね。中大兄皇子らが大化の改新を起こしたときにつけられた元号です。詳しくは下のリンクからどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

じゃあ次行きます。

和銅(わどう)

日本最初(富本銭の方が先だった)の貨幣・和同開珎の発行の年です。

霊亀(れいき)

別に有名じゃないですよ。ただ元号がR表記になるのは霊亀以来ってだけです。

天平(てんぴょう)

聖武天皇の治世です。天平文化で有名ですよね、仏教が盛んでしたね。ちなみにこの後天平感宝天平勝宝天平宝字天平神護神護景雲と四文字の元号が続きます。

貞観(じょうがん)

中国には実に上手く成功した改革があるんですよ。それが貞観の治です。確か唐の時代だったかな?専門外なんですみませんが調べていただければ…それをそのままもらってつけた元号です。

保元、平治(ほうげん、へいじ)

いつかこのブログでも紹介するでしょう。前者は皇統の争い、後者は源平合戦ってのが概略です。時代を順番に追っているブログなのでもうしばらくお待ちください。

治承、寿永(じしょう、じゅえい)

源氏と平氏の内乱をまとめて治承・寿永の乱といいます。

承久(じょうきゅう)

承久の乱、それは後鳥羽上皇鎌倉幕府が戦った戦いです。北条政子の「頼朝公の御恩は海よりも深く山よりも高い」という演説はあまりにも有名ですよね。朝廷軍が勝っていたら武家政権なんて無かったと当方は推測しています。でも時代の流れってものがありますからどの道、幕府軍が勝ったと思いますけどね。

文永、弘安(ぶんえい、こうあん)

元寇。外国の侵略は久しぶりですね。神風で助けられたという話がありましたね。とにかく勝ったんです。ヨーロッパでモンゴルに勝ち、日本でも勝ったためモンゴルの領土拡大を防ぐことができました。歴史にifはないですが、もしも負けていたら世界共通言語はモンゴル語だったかも、ですね。

建武(けんむ)

後醍醐天皇の治世の建武の新政で有名な年号ですね。天皇に関することなのでもうじきこの記事を書きます。お楽しみに。ちなみに南北朝の時代に突入していく時代の転換点だったんですが、南朝は延元に元号を変え、北朝建武を使い続けました。その後はお互いに別々の元号を使いました。足利義満が将軍の時代、南北朝合一で元号北朝の明徳に統一されました。

観応(かんのう)

足利尊氏とその弟・直義そして高師直の争いである観応の擾乱があった時代です。

嘉吉(かきつ)

この年号の時に足利義教が暗殺された嘉吉の変がありました。

応仁(おうにん)

戦国時代の始まりになる応仁の乱で何よりも有名ですね。

文禄、慶長(ぶんろく、けいちょう)

朝鮮出兵の本名は文禄の役慶長の役ですね。慶長年間に大阪の陣もありましたね。戦乱の多い元号でした。その後徳川家康は元和に年号を変えて完全に徳川の時代となりました。 

江戸時代の有名な年号

ダイジェスト形式で一気に紹介します。

三代・家光が農民に向けて発布した「慶安」の御触書

江戸時代代の大火事で江戸城もほとんど焼失した「明暦」の大火

五代・綱吉治世下の上方で発展した「元禄」文化

新井白石の「正徳」の治、三大改革の「享保」の改革、「寛政」の改革、「天保」の改革

十一代・家斉治世下の江戸で発展した化政文化(「文化」、「文政」

明治維新の時の元号は「慶応」    

江戸時代で有名な元号はこんな感じでしょう。

明治、大正、昭和、平成

近現代に入って一世一元の制が定められ、数は多くありません。そのため昭和が日本で(世界でも)最も長い元号でした。ちなみに明治以前の元号は祝い事、天災、そして天皇崩御などで元号が変わっていたので元号はたくさんあったんです。例えば白い雉や亀が献上されたとかでも元号が変わっていました。(白雉、霊亀とか)

そして通算248個目の元号令和です。次の時代が楽しみですね!

先日発表!お城総選挙で選ばれたお城たちを解説!

どうも未来の日本史博士です。

今回の話題は先日放送されたお城総選挙についてです。その中でも今回は30位から26位まで詳しく解説していきます。

30位 丸岡城 

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〈基本データ〉

名称(別名) 丸岡城(霞ヶ城)
築城年 1576年(天正4年)
築城者 柴田勝豊
主な城主 柴田勝豊、本田氏、有馬氏
居城とした藩 丸岡藩
遺構 天守、石垣
所在地 福井県坂井市丸岡町霞1-59
特記事項 日本100名城36番
1月1日は無料開放

 公式ページ   丸岡城特集| たび・あそび 丸岡 坂井市丸岡観光協会公式サイト

 

この城は現存天守のなかで最も古い天守をもつお城と言われていましたが、坂井市教育委員会の調査で江戸・寛永年間に建造されたことが判明したそうです。丸岡城は北陸にあるお城なので瓦が割れるのを防ぐため石でできた瓦を使っているんですね。それと、丸岡城には人柱お静の伝説があります。これは知っている人も多いでしょう。ちなみに丸岡城のすぐ近くに「日本一短い手紙の館」というものがあります。

 

29位 岐阜城

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〈基本データ〉

名称(別名) 岐阜城稲葉山城
築城年 1201~04年(建仁年間)
1532~55年(天文年間)
1558~70年(永禄年間)
築城者 二階堂行政斎藤道三織田信長
主な城主 二階堂行政斎藤道三織田信長織田秀信
居城とした藩 なし
遺構 天守台、石垣
所在地 岐阜県岐阜市金華山天守閣18
特記事項 日本100名城39番

 公式ページ   岐阜城|岐阜観光コンベンション協会 

 

あの有名な織田信長が建造したお城で、金華山頂上に天守山麓に御殿があったというその時代では最新の構造だったようです。明治に入って日本で最初に観光目的で天守が再建されたものの、1943年に焼失、1956年に再建されました。山麓の信長居館には注目が集まっていて新たな研究成果が続々と出てくることでしょう。山に登るのは割としんどかったです。

 

28位 広島城

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 〈基本データ〉

名称(別名) 広島城(鯉城)
築城年 1589年(天正17年)
築城者 毛利輝元
主な城主 毛利輝元福島正則、浅野氏
居城とした藩 広島藩
遺構 石垣、堀
所在地 広島県広島市中区基町21-1
特記事項 日本100名城73番

公式ページ   広島城 Hiroshima Castle Rijo

 

広島市の三角州地帯にあるお城。毛利輝元が「島普請」で10年かけて作らせただけあって、大小2つの天守やたくさんの櫓が建ち並んでいたようです。その後輝元は関ヶ原の戦いで敗戦し萩へ移封、福島正則福島正則は石垣の無断改修を咎められ改易、浅野氏が明治まで続きました。明治以後は陸軍用地、そして天守が原爆で倒壊してしまいました。1958年再建です。再建されてはいるものの黒塗りの天守はきれいでしたよ。

27位 忍城

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〈基本データ〉

名称(別名) 忍城(浮き城、亀城)
築城年 15世紀後半
築城者 成田氏
主な城主 成田長親、松平忠吉
居城とした藩 忍藩
遺構 土塁、堀、移築門
所在地 埼玉県行田市本丸17-23
特記事項 日本100名城118番
和田竜「のぼうの城」の舞台

 公式ページ   行田市/忍城(おしじょう)とは

 

何よりも「のぼうの城」で有名ですよね。南北を川で囲われているために石田光成軍に水攻めにされることになりました。とにかく天然の要害だったわけです。江戸時代入って家康の4男・松平忠吉が入封し忍藩庁となりました。

26位 高知城


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 〈基本データ〉

名称(別名) 高知城(鷹城)
築城年 1601年(慶長6年)
築城者 山内一豊
主な城主 山内氏
居城とした藩 土佐藩
遺構 天守、本丸御殿、多聞櫓、門多数、石垣
所在地 高知県高知市丸の内1-2-1
特記事項 日本100名城84番

 公式ページ   高知城 - 高知市公式ホームページ

 

天守に付属している本丸御殿が現存しているのはとても貴重なので一度は訪れるべきお城です。もちろん当方も行きましたが、とても興奮しました。ほんとに古式ゆかしいって感じです。ともかくこのお城は掛川から移封された山内一豊が築城しました。そのため1727年に焼失した天守の再建をしたときに築城当時のままになっているのは山内家を盛り立てた一豊への想いがあるからだと言われています。本当にいいお城ですからぜひ行ってみてください。ちなみに写真撮影にぴったりの見た目をしていますし、撮影スポットもたくさんあるのでぜひぜひ撮ってみてください!

 

今回はお城総選挙で見事選ばれた30位から26位のお城について紹介しました。個人的にはもっと上位だろうと思ったお城もあったのでこのブログでは当方のおすすめをどんどん紹介していくつもりです。次回以降乞うご期待!

 

なお100pv/月を超えた記念にTwitterのアカウントを開設しました。使い方とかは全然分かっていないのでご容赦を。今後もよろしくお願いします。

市の職員さんに聞いた!仁徳天皇陵の調査について解説

どうも未来の日本史博士です。

先日仁徳天皇陵を訪れまして、ボランティアの方、堺市文化財課の職員さんに話を聞いてきました。と言う訳で、今回は仁徳天皇陵について、そして宮内庁との共同調査の内容についてさらに詳しく掘り下げていきます。

いきなり詳しく解説していくのでとりあえずざっくりと説明した記事を読んでからどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

 

 

仁徳天皇陵の概要

百舌鳥古墳群の1つ。全国で最も大きな古墳です。面積は濠を含めて約47万平方メートル(甲子園球場12個分)、一日2000人のべ680万人が働いても15年は軽く超えます。正式名称は百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみささぎ)です。明治時代の発掘調査から埋葬されている石棺の形は亀の甲羅のような形をしているそう。石棺の蓋は幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.5メートルほどと推測されています。石棺を覆う石室について、長さは東西に約4メートル、南北に約2.5メートルで、20〜30センチメートルの丸石(自然石)を積んで作られていて、大石3枚でおおわれていたようです。また、石室と石棺よ間から甲冑、ガラスの杯、太刀の金具、鉄刀20本ほどが出土し、堤(濠の外側の部分)から出土埴輪や須恵器から5世紀中頃の築造と考えられています。

仁徳天皇陵アクセス

所在地 大阪府堺市堺区大仙町7

最寄り駅 JR三国ヶ丘駅(駅から徒歩約10分ほどで現地)

もちろん年中無休です。

仁徳天皇陵の写真

正面の拝所

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すぐ横に宮内庁の管理所がありました。
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横から見た仁徳陵f:id:gonikyuroku:20190327143138j:image

堺市役所21階の展望台からみた仁徳陵

(写真中央)
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展望階にあった空撮写真

(写真右上)
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明治時代の発掘

一度明治時代に堀が崩れたらしくその時に立ち入りがあったそうなんです。その時に甲冑が出土したそうで、仁徳陵の隣にある博物館でレプリカを見ることができます。現物はというと発掘された後、絵に写してそのまま埋めたのだとか。盗掘されていなければまだ眠っているそうです。ちなみに発掘場所はここ。米・ボストン美術館にも仁徳陵から出土したといわれている銅鏡などが保存されているそうです。

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宮内庁堺市の共同調査

では本題にいきましょう。

まずは調査された地点です。

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3つの地点で調査を行ったそうです。堺市が主催した講演会で使用した資料を入手できたのでそちらから引用して解説していきます。

第一堤の3箇所(以下記載)にトレンチを設定して人力で掘削しました。

1トレンチ 幅2m×長さ28m

2トレンチ 幅2m×長さ31m

3トレンチ 幅2m×長さ28m

 

いずれのトレンチからも、現在の地表面の約0.2〜0.4m下において、第一堤上に並べられた埴輪列が第二濠際にて確認した。その一方、第一濠際では埴輪列が確認できなかった。(堺市「海を渡った交流の証し」配布資料)

つまり、埴輪は第一堤の外側にしかなかったということです。(以下参照)f:id:gonikyuroku:20190330095340j:image(イメージ)

何故、内側にはなかったのでしょう?先程の資料ではこのように考察しています。

このことについて、現段階では以下の3通りが推測される。

①築造当初から埴輪列が存在しなかった。

②波浪の浸食などにより堤が崩落した際に埴輪列も失われた。

③並べられた埴輪の間隔が広く、今回設定したトレンチの幅では埴輪列が確認できなかった。(同上)

識者の方ではこのように考察したそうですね。今後の調査に期待しましょう。

もう一つ仁徳天皇陵に石が敷かれていたという点についてお話しします。普通、古墳の斜面部分に崩落を防ぐ目的で石を半ば埋め込む形で敷きますが、今回の調査で堤の表面にも石が敷かれていたことがわかりました。より豪華に見えるように作ったんでしょうね。ちなみに石敷きと同一面に埴輪列があるので築造当初の遺構と考えられています。

 

堺市の職員さん、ボランティアのガイドさんに今後の調査について話を聞いたところ、宮内庁次第との返答が返ってきました。ただ、疑問点がさらに浮かび上がった以上再び実施する可能性は高いということです。これからの動向に目が話せませんね!

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史上初!2回即位した天皇

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回の続きで、前回の予告通りに大化の改新の時の天皇の動向を把握していこうと思います。ではではいきましょう。一応前回のリンク貼っておきます。

gonikyuroku.hatenablog.com

 

皇極天皇

<p>f:id:gonikyuroku:20190326204513j:image</p>

引用:wikipedia

誰とは言わないでくださいね。前回出自は紹介していますから。さあ、詳しく紹介していきます。皇極が即位して以後蘇我蝦夷、入鹿が実権を握り専横の限りを尽くしていました。そこで危険を感じた中大兄、そして鎌足乙巳の変を起こします。その後、皇極は中大兄に皇位を譲ろうとしたんですが、中大兄は時期尚早として断りました。そこで皇極の弟・軽皇子孝徳天皇として即位します。

孝徳天皇

<p>f:id:gonikyuroku:20190326204536j:image</p>

引用:歴代天皇.com

皇極の治世の時と同様、中大兄を皇太子として、内臣を鎌足左大臣を安倍内麻呂、右大臣を蘇我石川麻呂に任命して新政権をスタートさせました。

ん?何で蘇我の名前があるのかって?未だ謎です。石川麻呂についてはちょっと詳しく語ります。石川麻呂は入鹿のいとこですが、大化の改新の時から中大兄側について乙巳の変のときは皇極の御前で朝鮮からの使者の手紙を読み上げる担当でしたが、緊張して声が震えていたところを入鹿に咎められ、「帝の御前ですから」と言い訳をしたんですがもはやピンチ!そこで中大兄がとどめを刺しました。

どこまで真実かはわかりませんが…その後は右大臣に任命されましたが、弟・日向が反逆の意思があると孝徳に讒言し、石川麻呂に使者を送りますが「帝の御前で話す」の一点張り。結果、孝徳は石川麻呂の屋敷の周りに兵を送り、自害しました。この一件は中大兄と鎌足の陰謀と言われています。まだまだ話は続くんですがこのブログでは天皇家をメインに紹介していくつもりなので今回はこれ以上は省略。

 

とりあえず孝徳の話に戻します。結論からいうと、中大兄皇子と孝徳は仲が悪かったそうなのです。平成のバンドグループとかでもよくある「方針の違い」ってやつですね。そもそも政治の実権は中大兄が握っていたんです。なので都を難波から大和への移転を奏上したとき孝徳は拒否したものの、皇極や公卿ら官人らが飛鳥の都に移りました。孝徳は他ただ一人難波に残され、失意のなかで崩御しました。

斉明天皇

重祚(ちょうそ)って知っていますか?天皇の位を一度降りた人物が再び天皇として即位することです。なぜそのような話をしたのかといいますと、最初に重祚した天皇が斉明だからです。要するに皇極と斉明は同一人物なんですよ。孝徳の崩御後、再び即位して斉明となり中大兄の改革を見守りました

今回はここまで。次回もお楽しみに!

 

 

 

大化の改新とは何ぞや?を解説

どうも未来の日本史博士です。

今回は古代史の中でも特に有名な大化の改新についてです。もちろん聖徳太子だけでなくこっちも知っていますよね。とりあえず推古天皇の後からいきましょう。

舒明天皇

聖徳太子薨去したのち推古天皇は皇太子を立てず後継者争いが起こります。蘇我馬子の子である蝦夷は田村皇子を推し、馬子の弟である境部摩理勢は太子の子である山背大兄王を推し紛議になり、事件が起こります。蝦夷が摩理勢を襲ったのです。摩理勢は亡くなり、田村皇子が舒明天皇として即位します。そこでさらに関係が悪化した大兄王を襲撃、死に追いやり、敵の消えた蘇我氏は専横の度を深めていきます。


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山背大兄王(引用:wikipedia

 

導入

舒明の死後、皇后の皇極天皇が即位します。ここで息子である中大兄皇子の登場となります。この人物もまた有名ですね。蘇我蝦夷とその息子入鹿が実権を握り、専横の限りを尽くしていました。その状況に危惧を抱いた中大兄皇子のところに中臣鎌足が蹴鞠の場で靴を拾って出会った…なんていう逸話もありますが、とにかく出会ったんです。そして大化の改新へと話が進んでいきます。ではいきましょう!

乙巳の変

一般的に言われる大化の改新のことですね。蘇我馬子中大兄皇子らに殺された事件ですね。そのあたり一連の流れをおさえていきましょう。時系列順にいきます。

蘇我氏の専横

蘇我蝦夷は甘樫丘に建てた邸宅を天皇の住居を「宮門(みかど)」と呼ばせたり、息子の入鹿に勝手に大臣の位を与えたり、天皇を無視するような振る舞いをしていました。

法興寺西側広場での蹴鞠

中大兄皇子法興寺で蹴鞠をしていた時、たまたま皇子の靴が脱げたのです。そこで靴を拾った中臣鎌足が差し出し、鎌足と皇子は意気投合して蘇我氏打倒を決意しました。

物部氏と同調して仏教排斥を唱えて蘇我氏と対立していたので相容れない立場だったのです。
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乙巳の変当日

乙巳の変の実行は645年朝鮮半島からの使者を招き入れる「三国の調」という儀式のときに決定、場所は皇居・大極殿です。綿密に計画を立てたとはいえ、やはり当時の権力者を暗殺しようとすると怖気つくのは当然のこと。暗殺役の家臣二人は手が出せずたとえ丸腰の入鹿といえども殺すことができず(鎌足が用心深い入鹿から護身用の刀を奪うために道化を使って刀を取り上げるという手段に出ていたのです。)、中大兄が飛び出して、刹那のうちに首を刎ねて殺害しました。その後、それを知った蝦夷は自分の屋敷に火をつけて自殺して、蘇我派の勝利に終わりました。
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大化の改新

ここからが本当の大化の改新です。

皇極、幸徳天皇のもと皇太子として、唐を模範とした新しい政策を打ち出します。順番に解説していきます。乙巳の変の翌年(つまりは646年)に「改新の詔」を発布します。その中の「公地公民制」「班田収授法」国内全ての土地と人民は天皇のものであるとして、豪族の力を削ぎ朝廷(天皇)の臣下であることを改めて規定した一種の革命でした。ここで鎌足は内臣として中大兄を補佐していました。日本書紀の中では単なる側近ではなく、「隠然たる独裁者」とも書かれています。それくらい中大兄の補佐として積極的に活動していたわけで、名実ともに鎌足は中大兄のナンバー2だったのです。大化の改新のときは中大兄と皇極、孝徳の間でいろいろあったので、まあ大化の改新天皇の関しては次回の記事でじっくり語るつもりです。

次回以降も乞うご期待!

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かの有名な聖徳太子の実像に迫る!

どうも未来の日本史博士です。

今回こそ聖徳太子についてじっくり語っていきたいと思います。まずは基本的なことからいくつもりです。

ではいきましょう!

 

厩戸皇子の素性

え?厩戸皇子?誰?って思った方へ、前回の記事を見てください。厩戸皇子というのは聖徳太子の本名です。とりあえず今回は聖徳太子特集なのでそういったことも含めて語っていきます。先ほども言った通り厩戸皇子というのが本名で聖徳太子というのは諡(おくりな)です。また別名として豊聡耳皇子(とよとみみのみこと)というのもあります。古事記での呼び方はこっちですね。

では基本データを

厩戸皇子


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 別名 聖徳太子

 生没年 574~622(49歳病没)

 父親 用明天皇

 母親 穴穂部間人皇女

 蘇我稲目の孫、推古天皇の甥     

         ざっとこんなもんです。

じゃあ具体的に厩戸皇子の事績を見ていきましょう。有名なのは冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣ですね。これらは後程一つずつ解説していきます。そもそもどうして太子が摂政になったのかからいきます。

聖徳太子が摂政になった理由

前回の記事でも紹介した内容ですが改めて書いておきます。上述の通り太子は用明の皇子なので皇族の一員です。つまり天皇になる資格(皇位継承権)があったんです。そしてその事績で有名なようにその実力は折り紙つきです。じゃあ太子が即位すれば良かったのでは…と思うかもしれませんが、その時代は年齢条件が優先される時代だったため結局、推古が即位されました。ですが推古は蘇我氏の権力を削ぎたいと思いつつ、推古自身も蘇我氏外戚だったため、争いは避けたいと思っていました。そこで推古は太子を摂政とすることで勢力バランスを保とうとしました。最終的に求めることは天皇中心の政治を理想でした。

さらにさらに、推古と太子は仏教を信仰することでも一致していました。仏教の教えは心を静める効果があり、(個人的な意見はさておき、いろんな考えがあるとは思いますが…)中央集権体制を敷くにはもってこいだったんですね。二人の意見が一致したのですから、太子は摂政になるべくしてなったのですね。

聖徳太子の事績

と、まあ、太子が摂政になった経緯を解説しましたが、事績について語っていきます。

なお天皇についてをメインに語るブログなので聖徳太子の事績は控えめにいきます。

 〈冠位十二階〉

これは中学校でもある程度詳しく習いましたよね。まあ、簡単に解説します。この制度は家柄ではなく個人の能力を尊重して登用するものです。ご存知の通り色によって位が決まるのでその件も紹介します。ちなみに蘇我氏は十二階より上の地位にいたため、紫冠をつけていました。皇族も特別な色の冠を持っていて、十ニ階より下の地位の人物も各々十二階とは別の色の冠を持っていたようでどこまで効果があったのか…まあ蘇我氏の冠の話とかは俗説だという研究もありますけどね。とりあえず一般的な十二階です。


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 憲法十七条〉

これは国の中心は天皇であることを公に示したものです。内容は有名なので一応書いておきます。 

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 〈遣隋使の派遣〉

「日出(いず)る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。」という親書を隋の皇帝・煬帝に送りつけたことで有名です。ちなみにこの親書を携えて隋に行ったのは小野妹子ですが、実際は二回目の遣隋使なんですよ。一回目はあまりうまくいかなかったようです。余談ですが小野妹子率いる第二弾遣隋使の返答の親書を持ってきた使者は裴世清という人物です。

聖徳太子の改革の成果

こうして従来の氏姓制度を脱して天皇を頂点とした朝廷の新しい序列を整備して優秀な人材を集めて支配体制を固めることに成功しました。そういう観点では「聖徳太子」という呼称は後世の作り話であると否定されがちですが、朝廷の体制を固めることに貢献したという点ではそう呼ばれるのにふさわしい人物だったと考えられますね。だからこそ紙幣の人物になり得た訳です。f:id:gonikyuroku:20190319141404j:image

 

以上、聖徳太子特集でした~。次回は舒明天皇以後の話です。乞うご期待!

 

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日本最初の女帝~推古天皇~

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回の予告通り推古天皇について解説していきます。もちろんおなじみの聖徳太子も登場しますよ。

ではでは早速いきましょう!

 

 

女帝登場


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推古天皇画像)

前回崇峻が暗殺されたところまで解説しました。そこでは推古の関与についても考察しましたが、今回は推古が即位するところからです。崇峻の死後すぐに敏達の皇后の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が即位、推古天皇となります。もちろん知っていますよね。女帝の補佐をするために摂政がおかれ、厩戸皇子が就任します。これも有名ですよね。一度言っておきますが聖徳太子という名が一般的ですが、本名は厩戸皇子なのでここでは後者をとって書いていきます。ただ、今回は推古についての回なので厩戸皇子聖徳太子)についてはいつか詳しく書いていきます。

厩戸皇子も皇族だったため皇位継承権があって、また用明の皇子である厩戸皇子のほうが用明の妹である推古よりも血統的にも近いため現代では厩戸皇子の方が有力なんですが、当時は世代や年齢が重要視されたんです。という訳で推古が即位、厩戸皇子が摂政になりました。一応厩戸皇子が成長するまでの中継ぎだったんですが、推古は崩御する前に厩戸皇子が亡くなってしまったため皇子が即位することはありませんでした。

では、推古の治世を掘り下げて書いていきます。

まずは三頭政治の話から。(スターウォーズの古代史にもシス三頭政治ってのがあります。いつか語ります。余計な話題を持ち出してすいません。)

推古治世下の三頭政治のキーパーソン三名は推古天皇厩戸皇子蘇我馬子です。でも実態は推古は政治に関わっていないので、皇子と馬子が協力しあって政務を推し進めたのと考えるのが一般的ですね。推古も摂政である皇子さんに任せていましたが、別に推古自身は能力がなかったわけではなく、容姿端麗、頭脳明晰だったと言われています。

冠位十二階や憲法十七条といった政治の内容は厩戸皇子単体の回で。

なお蘇我氏の全盛期ではあったものの、馬子が推古に直轄領の支配権を願い出た際はきっぱりと断っているので決して蘇我氏の言いなりになっていなかったわけではんまいですよ。そんなこんなで三頭政治の均衡を保っていました。

推古自身の主な事績は「天皇記」「国記」の編纂や、四天王寺法隆寺の建立に関わったことや、遣隋使の派遣などですね。 

今回はここまで。次回、舒明天皇からです。乞うご期待!

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知る人ぞ知る暗殺事件

どうも未来の日本史博士です。

今回は誰もがその名を知るであろう聖徳太子について解説します。

では、前回の続き、すなわち崇峻天皇から解説していこうと思います。

 

丁未の乱

そもそも崇峻天皇が即位するまでにいろいろあったんで、そこから書いていきます。

で、ことの発端は用明天皇崩御した後、物部守屋穴穂部皇子の擁立を図ったことから始まります。守屋は蘇我氏と血縁関係のない人物を擁立しようとしていたんですが、亡くなってしまったので仕方なく…という経緯で穴穂部皇子の擁立に至ります。

一方の蘇我氏はというと、後の推古天皇となる額田部皇女を擁立して全面対決となります。先手を打ったのは蘇我氏、(ある意味物部氏が軍を動かそうとして蘇我氏が行動を起こしたんですが)馬子が穴穂部皇子を殺害します。すでに両家は仏教の信仰をめぐって対立していたので戦争状態に突入していきます。ちなみに聖徳太子(本名・厩戸皇子)は蘇我氏側についていました。さあ、続きにいきましょう!


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物部守屋(引用:wikipedia

蘇我氏が泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)や厩戸皇子を味方に取り込んで、物部氏の拠点・渋川の館を襲います。ちなみに渋川は今の大阪府八尾市にあります。前回の記事を見ていただければ分かるはずなんですが、物部氏って軍事を司る大連という役職についていたんですから戦に関してはエキスパートなんですよ。なので言うまでもなく蘇我氏は苦戦し、たくさんの兵を失ってしまいます。餅は餅屋です。ここで活躍するのがこの後主人公になる厩戸皇子です。彼は霊木を用いて四天王像(仏教の守護神)を作り、戦勝を祈願するとあら不思議。馬子の部下の一人が大木によじ登っていた守屋を見つけて射殺、蘇我軍の勝利に終わりました。これを丁未(ていび)の乱といいます。


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丁未の乱を題材にした絵ですが、こんな立派な石垣や櫓はなかったでしょう)


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(ここでは厩戸皇子(つまりは聖徳太子)が守屋を討ち取ったことになっていますが実際は別の人物です。)

その後厩戸皇子は祈願時の約束通り、四天王像を祀るために四天王寺を建立しました。

どうでもいい話ですが、大阪の天王寺の名の由来は四天王寺からきているんですよ。天王寺という寺はありませんからね。

 

そんなこんなで泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位しました。

 

崇峻天皇


f:id:gonikyuroku:20190316172417j:image 崇峻天皇

崇峻天皇は即位しました。ですが、即位できたのは蘇我馬子のおかげなんですよ。(前述の通り)なので結局馬子が実権を握り、崇峻は不満を募らせて…事件は起こります。

ある日、崇峻に猪が献上されます。それを指して「猪の首を切るように、私の嫌いな者を切りたい」と漏らしたんです。さあ、「私の嫌いな者」って誰でしょう?

 

答え:蘇我馬子

あの流れでいくともう分かりますよね(笑)

続きにいきましょう!崇峻の言葉を伝え聞いた馬子は怒って部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻を暗殺させました。不思議なことですよ。なんでかって?答えて差し上げましょう。後で(笑)。またまた話はそれますが、暗殺された天皇は20代安康と32代崇峻だけです。

 

暗殺事件の謎

不思議なこと…何がおかしいか分かりますか?それは、崇峻暗殺後も朝廷内に動揺が見られないことです。そのあたりの話は書いていなかったので分からなくて当然です(笑)。馬子がその後も政界で活躍していることが不思議だと思った方、惜しいです。馬子は情報が漏れないように駒を暗殺して口封じをします。(諸説あって、駒が馬子の娘を奪ったからともいわれています。)だから情報は漏れていないんです。で、話を戻しますが、天皇の暗殺という国家の一大事でも同様しないというのはどうもおかしいですよね。だから専門家たちは考えました。皇族が関わっていたのではないか、と。当方も同様の意見でして、皇族や重臣の了解を得て実行したんだと思いますよ。

 

今回はとても長かったですが、お付き合いいただきありがとうございました。!「次回聖徳太子登場!」なんて何度も言っててようやく端っこを出せましたが、彼に関してはまだまだこれから語っていきます。次回はかの有名な女帝の登場からです。

デザイン編集も頑張っていきます。乞うご期待!

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今回は当方が今まで書いた記事のハイライトとなります。

なので新しく知る情報はないでしょう。

 

このブログのメインコンテンツである日本史と天皇の関係についての記事のまとめです。日本史の話題を語るためにこのブログ始めたので、一番記事数が多いです。

ではどうぞ。

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続いて旅行記関連の話になります。

日本史の話題のクールダウンの目的で、ツーリングや登山の話題を持ち出しています。

ある種の備忘録みたいなものです。ではどうぞ。

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その次はスターウォーズの内容です。スターウォーズは世界最高傑作のファンタジーです(個人の意見です)。という訳で一人語りで紹介しています。あの世界に心酔したらもう抜け出せませんよ(笑)。そのあたりの内容もこのシリーズで語ります

ではどうぞ。


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仏教の伝来と皇室のかかわり(後編)~蘇我氏についての考察を交えて~

どうも未来の日本史博士です。

前回、前編と題して欽明天皇までの歴史を解説しました。

 

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今回は続きというわけで敏達天皇以降について語ります。

では、早速始めていきましょう。

 

 

敏達天皇

ここはさっといきたいと思います。あまり多くの情報はないので…

物部守屋を大連、蘇我馬子を大臣として政局にあたらせたんですが、


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蘇我馬子肖像画)引用:日本の歴史.com
守屋は仏教を排斥したいと考え、馬子は仏教を崇拝するよう促したため、対立が激化してしまいました。

その後、守屋は30代敏達天皇の許可を得て仏像を海に捨ててしまい、祟りが疱瘡として現れてしまい、結局敏達自身が疱瘡にかかって崩御してしまいました。

 

用明天皇

藤原氏でよく見る自分の娘を天皇の嫁にして、自分が天皇の外祖父になる方式あるじゃないですか。下の図のような…


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引用:history-land.com

蘇我氏もその方法使ったんですよ。というわけで続き解説続けていきます。

31代用明天皇は父が欽明で、母が蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)です。さっきの藤原氏の例と同様に蘇我氏権勢をふるいました。

ちなみに用明の皇后には堅塩媛の妹・小姉君の娘である穴穂部間人皇女を迎え、蘇我氏との血の繋がりがとても強くなりました。


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引用:wikipedia

さらに用明自身は即位2年目で病に倒れてしまい仏教への帰依を願うようになったと言います。仏教を取り入れようとする蘇我氏にとっては幸運に幸運が重なっています。

また、病がより重くなり、仏師の奏上を受け入れて仏像と寺をつくることを許可しています。

次回の話に登場する聖徳太子用明の皇子で法隆寺薬師如来像は亡き用明のために作ったとか。

そもそも蘇我氏の出自は?なぜ仏教を信仰したのか?

ここからは皇室よりは蘇我氏をメインにして古代学を話していこうと思います。

そもそも蘇我氏はどうして仏教を信奉したのでしょうか。

 

その理由は周囲にいた渡来人が関係していました。彼らは主に朝鮮から来た人で、言うまでもなく仏教を信仰をしていました。そこで蘇我氏は仏教をあえて信仰することで渡来人とより強固な関係を結ぼうと考えたのでしょう。(あくまで個人の意見です。

ちなみに蘇我氏自体がイスラエル人だとか、渡来人だとかいう論もありますが、それは分からないですね。一応系譜上では神功皇后のときに活躍した武内宿禰の子孫と言われています。

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www.xhimiko.com

神功皇后の話についてはこちらから。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

ただ、少なくとも渡来人と密接な関係にあったのは事実です。あくまで個人の見解ですが神功皇后朝鮮出兵のときに渡朝した武内宿禰が朝鮮現地で子供を設けその子孫が蘇我氏に繋がっていったのではないか、と推測しています。

 

今回は敏達、用明天皇について、そして仏教と蘇我氏とのかかわりについて解説しました。次回以降も乞うご期待!